Windy day  - 北朝鮮拉致問題


北朝鮮拉致問題について、
ご家族や支援者の方が
書かれた本を読んでの感想です


手記
家族
絆なお強く
めぐみ、お母さんがきっと助けてあげる
奪還

漫画
めぐみ





 「家族」
(北朝鮮による拉致被害者家族連絡会・著/光文社)

拉致被害にあったそれぞれのご家族について書かれてあり、とても分かりやすく、読みやすい本です。表紙としおりのヒモは青色で、拉致被害者救済のシンボルカラーです。

それぞれの家族がどのように幸せに暮らしていて、いなくなってどんなふうに必死に探し、何年間も苦しみに耐え、北朝鮮による拉致と分かってからの闘いの様子が、ほんの一部ですが知ることができます。

<横田めぐみさんの章>

学校から戻らないめぐみさんを早紀江さんが探しに行く部分は、心配する様子がとても伝わってきて、どんなに不安で一杯だったかと察すると、こちらまで胸が苦しくなってくる気がしました。体育館の明かりが点いていて、女性のキャーキャーという歓声が聞こえてきたので、ああ、まだ部活をやっていたのかと胸を撫で下ろし、念のため中を覗いてみたら、それはママさんバレーの大人たち。明るい光景とはうらはらに、「ゾーッとした」という早紀江さんの心境を思うと、何ともいえずたまらない気持ちになりました。
その後すぐにあちこちを探し回るのですが、この時、めぐみさんはまだどこか近くにいたのだと思います。今だったらGPS付きの携帯電話を持っていたなら、と考えても仕方のないことだと知りながら、やはり悔しい。

他の拉致被害者のご家族にも共通していることは、突然行方不明になり、その理由も生死も一切分からないことの残酷さです。「蛇の生殺し状態がずっと続く」 と表現されていますが、まさにその通りなのでしょう。

家出なのか、事件か事故に巻き込まれたのか。事件や事故なら、最悪の可能性もあり得るので、そうだとは思いたくない。しかし家出だとすれば、育て方が悪かったのか、娘の悩みに気付かないだめな母親だったのだろうかと自分を責めることになり、どちらにしてもとても辛かったそうです。

街中ですれ違う女性、新聞の写真、雑誌、絵のモデル…めぐみさんと似ていると感じた女性がいれば、全国を飛び回って確認しに行きました。「別人だということは最初から分かっている のだけど、ひょっとしたらという思いがある限り、確かめずにはいられなかった」。
わらをもすがる思いで確かめに行き、やっぱり違っていたことを知り帰る道中は、いかほどの失望感だったでしょうか。

横田さんの苦しみはそれだけではありませんでした。生命保険をかけて殺したのではないかと警察に家じゅうを捜索されたり、宗教や得体の知れない人々が訪ねて来たり、悪質な噂に悩まされたり、好奇の目にさらされたり、警察で身元不明者の死体の写真を確認したり。

北朝鮮による拉致ということが分かってからは、新たな苦悩が始まりました。政府の無関心な対応、何年も無関心だった世間(私自身も含めて)、実名報道については「気が変になるくらい考えた」そうです。

横田さんをはじめ、ご家族の方々が味わって来ているこれらの苦悩によるストレスは、想像を絶するものと思います。地村保志さんの母 と志子さんは、心労による脳硬塞で寝たきりになられて2002年に永眠されていますし、横田滋さんも06年のはじめ、体調を崩されたと聞きました。どうか全てのご家族の方が、お体に変調をきたすことのないよう願うばかりです。

章の最後の方のページには、「徐々に手ごたえは感じている」とあります。本が出版されたのは2003年7月。拉致被害者の5人の方々の帰国の翌年で、子供さん達がまだ北朝鮮にいるという状況にあり、拉致問題に対して国民の関心が最も高かった時の余韻が続いていた時であろうです。5月の国民大集会では1万人以上の人が集まり、万景峰号の入港にも歯止めがかかり、政府もきっとこの時は少しは動いてくれていたと思います。

しかし2006年現在、日朝交渉は何の進展もないまま終わり、万景峰号も元のように出入港しており、拉致問題は再び膠着状態になりつつあります。ご家族の失望と苛立ちが募っているのではないかと思うと、たまらない気持ちになり、世間の関心は途絶えさせてはならないと改めて思うのです。



<市川修一さん、増元るみ子さんの章>

カップルでの失踪だったこともあり、後の地村さんと蓮池さんと同じように、警察は「どこかに泊まったんじゃないか」「駆け落ちでもしたんじゃないか」と当初取り合ってくれなかったそうです。
(結婚式の日取りが決まっており、駆け落ちす理由など何ひとつない地村さんカップルに対してもそういう扱いだった)

るみ子さんが失踪した当日の記憶について、姉弟と祖母の証言の食い違いについて、失踪した家族のことやその当日のことについて、家族の中で一切触れられなくなるという、拉致被害に遭ったご家族に共通する苦しみも語られています。

増元るみ子さんの父、正一さんの哀しみようも、刺さるように心に残りました。とても厳格で怖い父親だったそうですが、るみ子さんのいなくなった浜辺にぼんやりと浜に座っていた寂しそうな背中。
るみ子さんの弟、照明さんは、
「あんなに厳格で怖かったオヤジが」
と大きなショックを受けたそうです。

兄弟の中で、厳しい父親に唯一平気で懐いてきたというるみ子さんを、正一さんは特に可愛く思っていたに違いありません。拉致される2か月前のるみ子さんと正一さんが並んで写っている写真の、嬉しそうな正一さんの笑顔がとても心に残ります。

姉のフミ子さんは、大阪の会社に就職したいと言い出したるみ子さんを、寂しいからと引き止めたことで自分を責め続けています。もしあの時反対しなかったら、るみ子さんは大阪で就職していたかもしれない。そうしたらあんな事件に遭うこともなかったのに。

また驚いたのが、大韓航空機爆破事件をきっかけに、李恩恵とは誰かという新聞記事が出たのですが、増元家の承諾もなしに るみ子さん の実名が掲載されたということです。
「家族が長年じっと耐えているのに、なんで実名まで出して騒ぐんだ!」とご家族は激しく怒り、これで殺されてしまうのではないかと本当に心配されたそうです。拉致問題に限らず、公の記事にするのに、ご家族の承諾はなくてもいいのでしょうか。知らないうちに好き勝手なことを描かれてしまうとは脅威ですらあります。

2002年、実名を掲載された残り2人(浜本富貴恵さん、奥土祐木子さん)が帰国された時、あの時の報道で殺されることはなかったんだと、弟の照明さんは胸を撫で下ろさ れたそうで、本当に良かったですが、もし北朝鮮が危害を加えていたらどう責任を取るつもりだったのかと思うと、やはり許せません。

国交正常化を進めてしまおうとする森首相に、弟の照明さんが土下座したことは、この本で知りました。正常化をされてしまったら、北朝鮮が「存在しない」としているるみ子さん達は抹殺されてしまうかもしれない。テーブルを激しく叩いて詰め寄るという案も考えたが、一国の首相相手にそれはまずい。インパクトを与えるギリギリの選択して、照明さんは土下座を選んだ。照明んの土下座により、森首相に、正常化と拉致問題は同時に解決と言明させることに成功しました。

しかし父の正一さんは、
「なんで政治家に土下座なんかするんだ」
と怒っていたそうです。自分の息子がTVカメラの前で土下座する姿は、厳格な正一さんには許せなかったのでしょう。ここまでしなければ首相の意見は変えられなかったという事実に、首相は国民を一体何だと思ってるんだという怒りが沸いてきます。

小泉首相の訪朝前に家族と会ってほしいと要望し、
「心乱さず当日を迎えたい」
という意味不明な理由で断られた時も、成田空港に押しかけることも考えたが、日本国内が二分されている印象を北朝鮮側に与えたくないという配慮から諦めたそうです。必死に考え、我慢し、引くのはいつもご家族。理不尽さに腹立たしさがこみ上げてきます。

市川修一さんが北朝鮮にいるとを告げた瞬間、母のトミさんは大声で泣き出しました。それまで17年間、トミさんの前では修一さんの名前を出すことは、家族の中では完全にタブーとなっていました。修一さんの兄、健一さんは、母が激しく泣く姿をその時初めて見たそうです。

失踪してから17年間持ち続けていた、修一さんの生死への不安がどれほど大きかったか。一瞬一瞬を、どれほど切羽詰まったギリギリの状態で毎日過ごされて来たのかが、このタガが外れた瞬間にこめられています。

以来 トミさんは、ずっと封印してあった修一さんの洋服を、「いつ帰って来てもいいように」と虫干し始めました。もう着られるはずもない服を虫干しするトミさんの親心と、同時に当時の服がもう着れないほど年月が経っているということに、改めて事件の長さと残酷さを感じさせられました。

また、その連絡が入った95年から10年以上の月日が流れ、生きていると知ってから修一さんの名前を平気で口にできるようになったトミさんが、今また「このまま会えないのでは」という不安に押し潰されそうになってはいないか、再びご家族が修一さんの名前を出しづらくなってきてはいないかと心配です。

20歳の修一さんは電電公社に就職し(抜群に優秀な成績だったと後にご家族は知る)、るみ子さんとも結婚を前提に交際し、幸せの中にいたはずでした。10歳近く年上の兄、健一さんも、ようやく父と3人で酒を飲み、男同士の会話ができようになったと喜び、感慨を味わっていた矢先の失踪でした。

健一さんは家族会の活動で 空港から真っ暗な地元へ車で戻って来るたびに、「あと何往復すれば修一と会えるのだろうか。思い浮かぶのは23歳当時の顔だけだ」と考えます。窓の向こうの暗闇の中に、修一さんの顔を思い浮かべながら車を運転する健一さんの心中を思うと、頼むからこんな辛い思いをもうさせないで欲しい、1日でも早く修一さんが帰って来るように、政府は本当に努力して欲しいという気持ちがわいて来ます。



<地村保志さん、浜本富貴恵さんの章>

地村保志さんの母、と志子さんは、保志さんが失踪してから2か月後に心労のために寝たきりになられ、夫の保さんがほとんどお世話をされていたそうです。TVの特番で、と志子さんは保志さんの写真をしきりに撫でながら、
「やっちゃん、どこ行ったー」
と涙を流したり、保志さんの誕生日をお祝いするケーキに、
「タン、ターカ、ターン」
と結婚行進曲を口ずさみながら、不自由な身体でぎこちなくナイフを入れるしぐさをされていた姿を見て、私は涙が止まりませんでした。
保志さんと富貴恵さんは結納も済ませ、結婚式の日取りも決まっていたのです。

浜本富貴恵さんの兄、雄幸さんは、富貴恵さんが失踪した時の心境を、
「それはもう、人に言われるもんやない。なんちゅうか、もうはらわた煮えくりかえるちゅうか。一人、歯を食いしばって泣かなしゃあないやないか」
と記していています。

雄幸さんと富貴恵さんは腹違いの兄妹で、富貴恵さんの失踪後、複雑な家庭環境が原因であるかのように世間から見られ、それが今でも悔しくてならないとあります。
マスコミには「恨みによる誘拐」「怨恨の三角関係」など書かれました。家族の失踪と共に、無責任な噂というつかみどころのない相手との闘いもあったことが改めて記されています。

雄幸さんは、訪朝前の小泉総理が「政治生命を賭けている」という発言を否定したことについて、
「私は漁師で、海に出れば『舟板一枚底地獄』という命がけの仕事をしている。私たちだけではなく、一般庶民はみんな毎日飯を食うために命がけで仕事をやっています。一国の総理が政治生命をかけていない、命がけでないとはどういうことや!」
と福田官房長官に詰め寄っています。

私は雄幸さんのように命がけで仕事をしているとはとても恥ずかしくて言えないのですが、事実そういう仕事をしている人や、必死に働いている大勢の国民がいます。その人達の血税で、政治家はろくに仕事もしないでのうのうといい暮らしをていると思うと本当に腹が立つ。

5人の方が帰国した際も、当初は「一時帰国」という約束でした。
5人の方々ももちろん北朝鮮に戻るつもりであり、ご家族の方も「いったん北朝鮮に戻すしかない」という諦めの姿勢だったそうです。

しかし雄幸さんだけは、「絶対に帰さない」という絶対的な態度を貫き通しました。
「もしあの時、自分があそこまで強硬に主張していなかったら、富貴恵は帰っていってしまったと思う」。
あの時北朝鮮に戻ってしまっていたら、おそらく2度と会えなかったのではないでしょうか。

本が発行されたのは、5人の方が日本にとどまり、子供たちと離ればなれになっている時なので、保さん(地村保志さんの父)は、
「いっそ日本で子供を作ってくれんかなあと思う」
とあり、また保志さんは、
「上の女の子が結婚してしまわないかと心配でならない。もしそうなったら、日本には来づらくなってしまう」
ととても心配されていましたが、子供さん達が無事に帰国された今、保さんの気持ちも、保志さんの不安も解消されたのではないかと思います。本当に良かった。

しかし、他にまだ帰国できない人達が大勢いて、まだまだ保さんは、心から喜べない日々が続いています。本当に心の底から喜ぶことのできるよう、一日も早く全員の帰国が叶って欲しいと、帰国が叶ったご家族のためにも思うのです。



<松木薫さん、有本恵子さんの章>

石岡亨さんから、「松木さん、有本さんと3人で、助け合って平壌で暮らしています」という手紙が届いたのは88年。
20年近く前から、3人が北朝鮮にいるという確たる物証がありながら外務所は動かなかったという事実に、まず驚きというか呆れさせられます。

手紙は、なるべく小さく折りたたんだ折り目がついており、監視の目をかいくぐり、外国からの旅行者に渡して投函してもらったものでした。
拉致被害者の方がご家族に手紙を出すなど、文字通り命がけなのだそうです。命をかけた必死のメッセージを、政府はどうして放っておけるのか全く理解できません。

スペイン留学中に失踪した松木薫さんの父、益雄さんは、自らスペインへ行き、薫さんの写真を見せて「この人を知りませんか」と訪ね回りました。
日本でも、スペインへ行ったことがあるという人の話を聞くと、住所もろくに分からないまま出かけ、家を探し回り訪ねて行く。TVでスペインの映像が入ると食い入るように見つめ、どんなに小さな記事でもスペインのことが書いてあれば取っておく。

行方不明になった家族を心配する気持ちに国内も国外もありませんが、国外で行方不明になった場合、距離、土地勘、言葉などから個人で捜索するのは困難になり、さらに遠く感じられたことと思います。

薫さんは、女の子ばかりが続いた後の待望の男の子で、父の益雄さんはとても可愛がっていたそうです。
薫さんの失踪後、益雄さんは晩年、痴呆になり、毎日のようにタクシーを呼んで警察に立ち寄り、薫さんの捜索を必死に頼んでいたといいます。

小さい頃住んでいた近所には、北朝鮮から来た人がいて、よく行っていたそうです。
「薫はこんなふうに、あなたがた北朝鮮の人達とも仲良くしていた時代もあるのよ。そんな薫を、なぜ連れていってしまったの。父も母もあんなにかわいがって育て、夢を託していた薫を。文代はいま、北朝鮮に向かって、大声でそう叫びたい。うちの薫が、いったい何をしたというの」
という一文は、本当に率直にご家族の気持ちが表されていると思います。

薫さんはとても勉強熱心だったそうです。スペイン留学も、将来は自分の後を継いでもらいたいと 薫さんを見込んだ大学の恩師の強い勧めでした。

また大学時代、母のスナヨさんに「はい、お菓子」と渡したお菓子の箱には、スナヨさんからもらったお小遣いを貯めておいて、お札を入れてプレゼントしたそうです。この時スナヨさんは、「こんな出来すぎた子を産んだ覚えはないよ」と感激して涙を溜めてらしたそうですが、読んでいるこちらもジンときました。今、こんな子供さんが果たしてどのくらいいるでしょうか。

横田めぐみさんも、上り坂を上っていくおばあさんの荷物を持ってあげたり、登校拒否のクラスメートを毎朝誘って学校に行ったりなど、心の優しいお嬢さんだったそうです。
地村保志さんは、金賢姫の手記で「とても心がきれい」と記されていました。北朝鮮に拉致された後ですら、こう書かれるほど素晴らしい人間性をお持ちだということに、ただただ感心するばかりです。

世間には存在しない方がいいとしか思えない人が多数いるのに、これほど優しい心を持っている人が、また子供を虐待する親がいる中、こんなに思い合っている親子が引き離されてしまう世の中の皮肉さを感じずにいられません。

有本恵子さんは、赤ん坊のころからあまり泣くこともせず、とにかく大人しくて手のかからない子供だったそうです。
高校では、夜に英語の学校に通い、昼間はアルバイトしたり習い事をしたりして、頑張って留学費用を貯め、23歳でロンドンに留学します。そこで知り合った よど号ハイジャック犯の日本人妻・八尾恵にだまされて、北朝鮮に連れて行かれました。
外国で仕事ができると信じ込んだ 恵子さんは、日本の友人に、「大げさかもしれないけど、人生の第一歩を踏み出したといった感じです」と喜びがあふれる手紙を出しています。何かおかしいと気付き、だまされたと知り、日本には帰れないと理解した時の気持ち、そしてその瞬間から20年以上抱き続けているであろう後悔の念の大きさは計り知れません。

犯人である八尾恵と面会したご両親は、最も憎い相手であるはずの人間を「あの人は強力な味方や」と言いました。長年、政府に抹殺され続けてきた恵子さんの拉致を証言してくれる犯人は、貴重な助けになるはずだと。八尾恵や金賢姫、安明進さんらの元工作員が勇気を持って謝罪、証言しているのに対し、まるで日本の政府の方が敵のようです。

拉致を実行したのはまぎれもなく北朝鮮ですが、それを容認し、継続させているのは日本できないか。今現在、拉致しているのは日本だと言えるのではないかという私の思いは、この章をきっかけにふくらんでいくことになります。



<原敕晃さん、田口八重子さんの章>

本は八重子さんの兄、繁雄さんの視点から書かれています。

八重子さんの2人の子供さんのうち、1歳の男の子を、繁雄さんが引き取って育てられました。自分の3人の子供たちと分け隔てなく育て、子供さんは21歳の時に繁雄さんから真実を聞くまで、そのことに全く気付かなかったそうです。身内である妹さんの子供だとはいっても、自分の子供と分け隔てなく育てることのご苦労はとても大変で、非常に難しいことだと思うし、私だったらと思うと全く自信がありません。事実を隠し、守り通した繁雄さんと奥さんをはじめ、3人の子供さんも素晴らしい。

八重子さんは別居中の夫と別れる決心をし、子供を自分1人で育てるため、アパートを借り、仕事を決めた矢先に拉致されました。
ご家族は「八重子はどへ行ってしまったんだろう」とずっと思っていましたが、八重子さんも子供たちのことを思い、
「どうしているだろう。誰が育ててくれているだろう。どんな子に育っているだろう」
とずっと思いをはせていることと思います。

金賢姫の手記によると、八重子さんはいつも物思いに沈み、子供たちを思って涙を流し、生きる希望を失っているかのようだった、とあります。

八重子さんの息子さんは、本ではA男となっていますが、現在は田口八重子の息子としてTVカメラの前で顔と名前を公表し、問題解決のために活動されています。全国的に顔が知れるということは、私はもちろん経験はないのですが、ものすごく大変なことだと思います。

地村保さん(地村保志さんの父)の手記のまえがきでは、
「保さんと街を歩くと、すぐに小さな人だかりができる」
とあります。それだけ拉致問題に関心が持たれ続けているということですから、活動されているご家族としては光栄なことだと思うのですが、常に人の視線にさらされていることのストレスはまた別です。

そもそも、政府がきちんとこの問題に取り組んでくれていれば、ご家族が表に出て行く必要はないのです。家族がここまで必死に声を上げ、世論を盛り上げないと動かない政府とは何なのでしょうか。(しかもその動きも、よくやっているとは到底言えないレベルです)

いったんTVの前に出てしまえば、2度と静かな生活に戻ることはできません。息子さんが名乗りを上げた決意を称えながら、同時に、また1人、静かに暮らす権利を奪われてしまった政府の無策無能ぶりに対して、腹立だしさが増してきます。

原敕晃さんは北朝鮮の発表によると、田口八重子さんと結婚したとされています。しかし20歳近く年の離れた男性を八重子さんが選ぶとは考えにくいという繁雄さんなどの証言から、北朝鮮が適当にデッチ上げた組み合わせという見方が強く、ここでもそのことについては触れないことにします。

原敕晃さんは80年に拉致され、その実行犯が辛光洙とはっきりしています。辛光洙は、85年後に韓国で逮捕されるが、99年に釈放 され北朝鮮に帰国。日本政府は88年の時点で辛光洙の存在や拉致の実体を把握していたにも関わらず、何もしなかった。
「辛光洙が逮捕されてすぐに逮捕状を取って調べていれば、敕晃の救出も可能だったのではないか」と耕一さんは言います。

43歳で拉致された原敕晃さんの兄、耕一さん(本の発行当時76歳)は、
「ほかの家族会の方々は、一日でも早くいい結果が出るように願っていますよ。(中略)その点うちの場合は、もう両親も死んでるし、身寄りは私しかいない。帰ってきても、じいさんが一人増えて、どっちが先に墓に入るかという程度のもんでしょう」
と冗談とも本気ともつかない言葉で言ったとあり、悲しいとか切ないとかでは言い切れない、何ともいえない たまらない気持ちになりました。
警察と政府が任務をまっとうしてさえいればと、改めて怠慢さに憤りを感じずにいられません。



<蓮池薫さん、奥土祐木子さんの章>

帰国された5人の方の中でも、蓮池薫さんは、兄の透さんと共に特に注目されていたのではないでしょうか。

「横田さんに会いたい」
「俺は朝鮮公民として日本へ来た」
などの発言から、兄の透さんと大げんかになったそうです。

記者会見での透さんの話を聞いて、薫さんは北朝鮮の洗脳から覚めることができるだろうか、と私も心配になっていました。
しかし、「俺の24年間を否定するな」ということを言っていると聞いた時、北朝鮮で生きてきた事実を否定されたくない、それだけ必死に命がけで生き抜いて来られたんだなと、向こうでの壮絶な生活がほんの少し伝わって来る気がしました。

最終的には日本に留まる決意をされましたが、必死に生きてきたからこそ、その24年間を間違ったものだと認めるのは、非常に辛い決断だったと思います。

薫さんと祐木子さんも、子供さんを心配する様子が本の中で少し書かれてあり、読むたびに、子供さんが帰国して本当に良かったですねと言葉をかけたい気持ちになります。
しかし地村さん達と同様、まだ帰国されてない他のご家族の方を思うと決して心からは喜べず、心苦しい毎日を送ってらっしゃるのだと思うと、私たちも決して単純に「良かったですね」と、終わったかのような言い方をしてはいけないのだと思います。



<寺越昭二さん、寺越外雄さん、寺越武志さんの章>
現在ご存命の寺越武志さんは拉致と認定はされておらず、母の友枝さんも家族会には参加していません。

1963年、3人は漁に出たきり戻らず、無人のまま浮かんでる船が見つかった。
24年後、外雄さんから「北朝鮮にいる」という手紙が届く。船が故障して漂流していたら、通りかかった北朝鮮の船に助けられたという。
兄の昭二さんは5年後に病気で亡くなり、自分といとこの武志さんは、こちらで家庭を持って暮らしているという。

安明進氏の証言では、「(寺越さんらの)漁船がしつこく追いかけてきたので、乗っていた3人を拉致した。うち1人(昭二さん)が頑強に抵抗したので、その場で射殺して海に沈めた」とされています。しかし外雄さんと武志さんは、あくまで救助されたとしています。
その後、外雄さんも94年に亡くなりました。

武志さんの母、友枝さんは、北朝鮮で出世し、「幸福そうに見える」武志さんのことを思い、家族会にも参加せず、拉致認定も求めていません。

地村さんら5人が帰国する3日前、武志さんは39年ぶりに帰国していましたが、日本政府からは誰1人来ていませんでした。
友枝さんが 「どんな車でもいいから、日の丸のついた車で迎えに来て欲しい」 と外務所に頼みましたが断られたそうです。

地村さん達とはあまりにも違いすぎる待遇です。政府は友枝さんが一切助けを求めないのをいいことに、放ったらかしにしているとしか思えない。

武志さんが失踪したのは、横田めぐみさんと同じ13歳の時。まだ13歳なのに親から引き離され、知ってる人が誰1人いない、言葉も違う異国で暮らさなければらなくなった寂しさはとても想像できるものではありません。毎日毎日、どれほど寂しい夜を過ごされたことか。

その夜、友枝さんは隣りに寝ている武志さんの体をずっとなでていたという一文は、たまらなくなりました。
53歳になっても、子供がいて孫ができても、武志さんは友枝さんの息子で、友枝さんは武志さんの母ということは変わりありません。13歳の子供だった武志さんは、ずっと友枝さんにこうしてほしかったろうし、友枝さんもどれだけこうしたかったことでしょう。

親子なら当たり前にできる事がずっと出来ないできないでいた、今も出来ないでいる自国民がいるということを、政府はもっと重く受け止めるべきなのではないでしょうか。



<曽我ひとみさんの章>
曽我ひとみさんはご家族の文章ではなく、ひとみさん自身の手紙が掲載されています。

当時は夫と子供さんがまだ北朝鮮にいましたが、現在はみなさん帰国されているので、読んでいて「良かったなあ」としみじみ思いました。
地村さん達の子供さんが帰国されてからも時間がかかって、また再会場所についても二転三転して、私ですら気を揉んでいました。ひとみさんご自身は大変なご心痛だったことと思います。

また心無い一部の雑誌が、勝手にひとみさんの夫と娘さんにインタビューをし、
「早くお母さんに帰って来て欲しい」
「日本政府は約束を破った」
という発言を掲載し、ひとみさんは雑誌社への怒りと、ご家族への気持ちの葛藤にさらに辛い思いをされたこともありました。

キム・ヘギョンさん(横田めぐみさんの娘)のインタビュー報道の一件もありましたが、視聴率さえ取れればいいという一部マスコミのあざといやり方には、ひどく腹が立ちました。

何かあると異常なほど執拗に負いまわし、おさまれば全く取り上げなくなる。 しかし国民の関心を集めるには、マスコミは強力な助けとなり、またそれ以外にはあり得ません。熱しやすく冷めやすいマスコミには、ご家族も戸惑ってらっしゃるのではないかと思います。

そして、まだ母のミヨシさんの安否が分からないままなのです。拉致の認定はされていますし、おそらく北朝鮮にいることは間違いないと思うのですが、ご高齢であるし、1日も早く安否確認、そして帰国が叶うように願っています。



それぞれのご家族の章を読むと、外務省をはじめとした政府の冷淡な対応が、全てのご家族に共通していることがよく分かります。
警察や役所に行くと、
「それなら外務省ですね」
と口をそろえて言われるので行ってみても、その外務省は全くあてにならない。

「肉親の切迫した気持ちを逆なでするように、のんびりした答えや決まり文句しか返ってこなかった。何の罪もないのに一方的に連れ去られた自国民を、絶対取り戻すんだ、それが当たり前なんだという断固たる気迫も、そのための具体策も、感じ取ることはできなかった」
(横田めぐみさんの章より)

「『私にも子供がいますから、皆さんのお気持ちは、よ〜くわかります』。このセリフを簡単に吐く大臣に限って、その後、結局何にも動いてはくれなかった」
(増元るみ子さんの章より)

「必死になって訴える母親の言葉をあざ笑うかのように、のんきで無責任な調子の答えが返ってきた。私らと違うエリートの集団は、人の情というものが全然通じないところなんや。(中略)
『国交がないですからね』 の一言でおしまいだった。しかも、部屋の中に入れてくれようともしない。担当者らしき人が出てきて、廊下で立ち話だ。廊下の片隅で一生懸命訴えたが、それ以上は取り合ってもらえなかった」
(有本恵子さんの章より)


第三者の私が文章で読んでいても、ひどく苛立ちを感じるし、どういう神経なのかと疑いたくなるような対応です。
「外国のことは、外務省へ行ってください」と言われたのに、その外務省ではこういう対応なのです。一体どうしろというのか。

ロンドンで行方不明になった有本恵子さんのご両親は、
「国交がないですからね」
「向こうで楽しく遊んでるんじゃないですか」
と取り合ってもらえなかったとありますが、そうやって門前払いにするなら、外務省の仕事とは一体何なのでしょう。

行方不明になったのが家の近所と外国とでは、捜索の方法や依頼という点は、考えるまでもなく外国の方が大変だと分かります。距離や費用、土地勘、言葉の問題から、自分たちでは探すことは大変困難ですし、捜索を依頼するのも個人では難しい。それを代わって要請するのが外務省の仕事であるはずなのに、それをこんなふうに取り合わないというのは、職務怠慢も甚だしい。

また、連絡が取れなくなり居場所も分からないというのに、
「楽しく遊んでるんでしょう」
とは、どういうことなのでしょう。自分の子供が外国で音信不通になっても、そうやってのほほんといられるのか。そんなわけはないのですから、全く人の気持ちの分からない、鈍感な人間だということなのでしょう。それにしても、あまりに無神経すぎる言葉です。



また、政治家による無神経極まりない言葉も表記されています。

「北朝鮮は難しいからなあ。どうしたらいいか教えてよ」
(家族会が集めた署名を届けた時、冗談交じりに。小渕総理)

「日本国内でいくら吠えていても、めぐみさんは帰って来ない」
(コメ支援に反対する家族会に対し、講演で。野中広務)

「たった10人のことで日朝国交正常化交渉が止まってもいいのか」
(現在もこう発言している。外務省幹部)

「コメを10万トン出すことになりましたので協力してください」
(「コメは出しませんから」と蓮池家で言った20分後、奥土家での発言。山本一太外務政務次官)

「10万トンなんて出しちゃだめよ。100万トン出したら、どお?」
(コメ支援反対の座り込みをしていた家族会の前で意味不明発言。田中真紀子)

「うるさい! 黙りなさい! あんたのところは生きているんでしょう」
(小泉訪朝後に安否報告をした際、「こんな紙きれ1枚じゃなくて、ちゃんと全員のいる前で発表したらどうなんですか」と言ったハツイさん(蓮池薫さんの母)に対して。福田官房長官)



衝撃的だった9月17日の訪朝は、歴代総理としては初で、一見評価されそうですが、この本を読んで、日本が拉致問題への対策をいかに何もせずに 手ぶらのような状態で行ったかが分かります。

キム・ヘギョンさん(横田めぐみさんの娘)が持参した、めぐみさんが拉致された時に持っていたバドミントンのラケットとカバー、まためぐみさんが20歳のころの写真を、現物を持ち帰ることも、写真に撮ることさえしていない。

蓮池薫さんに会った時も、カメラもテープレコーダーも持って行かず、本人だと証明するための左足のケガについても何も知らず、両親は生きていますかとの問いにすら答えられなかったという。ご家族が長年、会いたくて会いたくてたまらなった家族に、自分が代わって会いに行くことの重みをどう考えていたのか。

訪朝前、総理に、ご家族は面会を申し入れましたが、
「心乱さず当日を迎えたい」
とのことで断られています。一体何のための、誰のための訪朝なのか。

どうして小泉総理をはじめ外務省や各政治家は、これほど人の気持ちが分からないのでしょうか。
必死に訴えるご家族を前にして、少しは心が動かされないのか。雄幸さん(浜本富貴恵さんの兄)にすこい剣幕で詰め寄られた福田官房長官は何も言い返せず、面会が終わり廊下に出た時は、待機していた記者が何事かといぶかしむほど真っ青な顔をしていたとありますが、一晩寝たらコロッと忘れてしまったのか。



訪朝後の発表は「5人生存、8人死亡」というもの。しかし死亡の報告は、
「人の生死にかかわるものですから慎重に裏づけを取りました」
と家族をさんざん待たせておきながら、何の裏づけも取らず、死亡した日時、理由、死因も全て「分かりません」と答えるのみ。北朝鮮の言ったことをただ聞いてきただけという、無策で無能きわまりない対応でした。

あの日、死亡とされたご家族の方々が会見に現れた時の、真っ赤に泣きはらした目と悲壮な顔は、いま思い返してみても本当に辛いです。

また痴呆の症状だったスナヨさん(松木薫さんの母)は、
「ニュースなど理解できるはずのない母なのに。その日食堂で、「松木薫さん 死亡」と告げるテレビニュースをじっと見ていたという。次の日、スナヨの目の下は真っ黒だった。母は寝ないとそうなる体質だった。痴呆で何も分からないはずの母が、眠れないほどつらい夜を過ごしたのだ」
とあります。何の確認も取らずいい加減な発表をして、ご家族に一時でもこのような思いをさせた政府は、今でも許すことは出来ません。

正一さん(増元るみ子さんの父)は、亡くなる直前、酸素マスクをつけたまま声をふり絞って、
「わしは日本を信じる。お前達も信じろ!」
という遺言を残しています。政府に対し裏切られ続け、激しく怒ってらしたそうですが、それでもやはり、頼るべきは日本という国しかないと最後に託された正一さんの、命をふり絞った嘆願を受けて、日本政府は恥ずかしいと思わないのか。酸素マスクをつけたまま必死で声をふりしほって話す、あの衝撃的な映像を見ても、心は動かないのか。

訪朝の際に持ち帰られた、横田めぐみさんの20歳のころとされる写真は 20歳にしては老けて見え、早紀江さん(横田めぐみさんの母)は、生存のメッセージとして最近の写真を提出したのではないかと信じています。

また、石岡亨さんからの手紙。拉致被害者の方が家族に手紙を出すなど絶対に許されないことで、本当に命がけだったのでしょう。被害者の方達がそうして必死に発している命がけのメッセージを、なぜもっと真剣に受け止めないのか、受け止めずにいられるのか全く理解できません。

私には(この当時はまだ)子供がいないですし、仮にいたとしても、20年以上もの間 苦しんで来られたご家族の苦しみは到底理解できるものではありません。
「 『私にも子供がいますから、皆さんのお気持ちは、よ〜く分かります』。このセリフを簡単に吐く大臣に限って、その後、結局何にも動いてくれなかった」
とありましたが、ご家族の気持ちを真剣に考えていないからこそ、簡単に「分かります」などと言えるのだろうなと思います。




2006年2月の日朝協議も全く進展のないまま終わり、いたずらに時間が過ぎていっているのがもどかくしてなりません。被害者の方やご家族が苦しみ続けている1日1日を、政府はどう考えているのか。

あとがきは蓮池透さん(蓮池薫さんの兄)。
「いまや「家族会」は政策にまで口を出す政治的な団体だと批判されるようにもなったが(中略)、果たして私たちがおとなしいままでいたら、拉致問題の解決はここまで進んだだろうか。断言するが答えはノーである。だからこそ、私たちは今後も政府に対して私たちの要求をつきつけていくつもりだ」
と、政府と一部の世論に対して 皮肉を交えた一文が印象的でした。

総理や政府はよくやっているという浅い認識を持っている人が大変多いということは、総理の2度目の訪朝後の世論調査で、「大いに評価する」「評価する」という肯定派が6割という結果を見て分かりました。また、家族会が政府に対して強く要求していることに批判する人がいるらしいことも知っています。

ご家族の辛い気持ちを思いやりもせずに よく批判などできるなとまったく理解できないのですが、そもそも、政府に意見するというのがどうしていけないのでしょうか。ご家族にとって、頼るべきは政府しかいません。その政府がご家族の意向を無視し、全く真剣に取り組んでくれていなかったら、
「私たちの話を聞いて下さい」
「もっと真剣になって下さい」
と訴えるのは当然のことです。

「この『家族』をお読みいただけれは、私たちが日本のどこにでもいる本当に普通の家族だということがよくおわかりいただけたと思う。それは(中略)誰でも被害者になる可能性があったということを意味する。(中略)拉致は決して他人事でない。どうか、日本国民の一人一人にそのことを考えていただきたいと切に願うものである」
蓮池透さんのこの言葉とともに、今この瞬間も 苦しみ続けている拉致被害者とそのご家族がいることを忘れてはならないと思います。


 

 「絆 なお強く」
(地村保、岩切裕 共著/主婦の友社)

「『もし、あなたの家族の一人がなんの前ぶれもなく、突然いなくなったとしたら、あなたはどうしますか?』。
この問いかけに、わが身、わが家族のこととして置きかえて真剣に考えるところから、北朝鮮による日本人拉致問題の理解はスタートする」
という、共同著者の岩切さんによる一文から始まり、実に率直で素直なこの言葉は心にスッと入って来て、心をつかまれました。

前書きによると岩切さんは、地村さんの住所も小浜市ということしか知らず、自分は北朝鮮と何の関係もないことを証明するために免許証やパスポートを鞄につめ、7時間もの距離を車で向かったそうです。
その一途さというか、真っ直ぐな気持ちさえあればきっと道は開けるというその一念は心強いです。

岩切さんは、理想の父親像を保さんの中に見い出し、北朝鮮問題についてではなく、地村保さんという1人の父親について記したかったとされています。保さんは保志さんの失踪後、捜索と仕事、そして寝たきりになった と志子さん(保さんの妻)の介護を自分1人でこなしたそうです。

保志さんと富貴恵さんが帰国した時、
「親として、人として、当然のことをやっただけや」
とあっさりと言ってらしたのを、私もTVで観たことがあります。

凄い、と思いました。
子供を大事に思っている親ごさんなら、事実、誰しも同じようにするのかもしれません。家族会に参加されている他のご家族の方々も、保さんのように全身全霊をかけて訴え続けてらっしゃいます。失踪者のご家族の中には 諦めてお葬式を出された方もいらっしゃいますが、それも苦しみ抜かれた選択の結果ですので誰にも責めることは出来ません。子供が生きていなければいいなんて思っている親はいません。

それでも、やはり保さんは凄い、と思うのです。保志さんの生存を堅く信じ続けて、捜索と救出活動を続けられたこと、寝たきりのと志子さんのお世話を24年間されたということ、保志さんの兄、広さんを、一切表には出さず守り続けたこと。
夫として、親として、そして人として、本当に素晴らしい。岩切さんと同じように、保さんに理想の父親像、人間像を見た気がしました。



第1章 失踪

保志さんと富貴恵さんが失踪直前に立ち寄ったレストランは、在日朝鮮人が経営しており、2人の失踪後、保さんには「そんなアベックは知らない」と言っていたのに、警察が行くと「来店していました」とあっさり認めたという。この店は結構繁盛していたそうですが、2人の失踪後しばらくして、なぜか閉店。

また駅前のパチンコ店にいた朝鮮人は、保さんに仕事の依頼をしたり、仕事場に時々顔を出していたそうですが、2人が失踪してからすぐに来なくなったとのこと。

日本での潜入や拉致を実行する上で、在日朝鮮人や日本人になりすました工作員などが協力したとされています。いつからなのかは分かりませんか、保志さんに狙いを定め、下見や計画がひっそりと準備されていたと思うと、背筋が寒くなるような気がします。

北朝鮮からの指令は、毎日深夜0時に短波放送でされているといいます。実際の短波放送をTVで聴いたことがありますが、淡々と数字を読み上げる女性の声には、本当にゾッとしました。
そして驚くことに、この短波放送は今も続けられてるというのです。(本の発行された2005年当時)

保志さんが乗って行った軽トラックが発見された時の警察の初動捜査のいい加減さ。
免許証が残されているのに「レンタカーでも借りて遊びに行ったんやろ」という適当なあしらい方。

もしこの時の初動捜査をきちんとして、不審船の情報にも対応していれば、保志さん達やその後の拉致事件も起こらなかったかもしれないのです。

点灯するべき灯りも点けずに真っ暗なまま、エンジンも停めて、漂流してるかのように浮かんでいるという不審船の情報は、新聞にも取り上げられていたそうです。なぜ海上保安庁はしっかり調査、取り締まりをしなかったのか。

保志さんが行方不明になって1か月半後、母の と志子さんが心労による脳梗塞で倒れ、寝たきりの状態になりました。
保さんは家事、仕事、そして と志子さんの介護を全て1人でやったといいます。亭主関白だったという保さんは、おそらくそれまで、洗濯や食事の仕度などされたことどなかったでしょうから、慣れない家の雑事は倍の苦労があっただろうと思います。

私が1番凄いと感じたのは、と志子さんの介護をほとんど1人でやってらしたということ。私は母親が父親の介護をするのを20年以上身近で見ていましたが、寝たきりの人の介護というのは想像以上に大変なことです。

と志子さんは手足のマヒがあったそうなので、食事も食べさせてあげなくてはいけなかったと思いますし、歯みがきの介助も必要だった でしょう。体をタオルで拭いてあげたり、着替えさせたり、全身のマッサージやリハビリをしたり。
私も父親に時々やっていましたが、リハビリは「これだけやればいい」というものではなくキリがありませんし、これを毎日やるというのは本当に大変だなあと思いました。

また床ずれといって、ずっと同じ姿勢でいると、圧迫されている部分の血行が悪くなり、ひどくなると膿んでグチュグチュになってしまいます。そうならないよう、数時間おきに体の向きを変えてあげなくてはならないのですが、大の大人の体を動かすのですから、これもなかなかの重労働です。下の世話もありますし、夜も1、2回は起きてらしたのではないかと思います。

何より感動したのは、保さんの、と志子さんへの愛情の深さと、いたわりの心の大きさです。保さんは介護を通して、
「できるだけ相手の立場になり切ることが大切だと分かった」
と語られています。口で言うのは簡単ですが、これを常に実行するというのは並大抵のことではありません。介護する側も人間ですから、その時の気分や、疲れてたりすると、ついイライラしてつっけんどんな態度になってしまうこともあるかもしれません。しかし保さんは、
「介護のおかげで、本当に充実した夫婦の時間を授かったように思う」
「介護が辛いと思ったことはただの一度もなかった。これ以上できないほど精一杯のことをやった」
「(と志子さんが)亡くなった後も、できる限りのことはしてやったから後悔はない」
と記しています。
24年間という長い介護生活を振り返って、きっぱりとこう言い切ることのできることが、果たして何人いるでしょうか。ただただ頭が下がる思いです。

保さんは、全国各地の神社やお寺を数え切れないくらい回りました。あそこがいいと聞けば、すぐにでも行きたくなるのは人情です。他の家族会の方も、占い師などを頼っておられます。

どこでどうしているのかが全く分からないというのは、あらゆる想像をかき立て、ものすごいストレスになるでしょう。
保さんは半年後くらいから、他のアベック失踪事件と不審船や工作員の情報から、北朝鮮による拉致だと確信していたそうですが、確証はないですし、生死は相変わらず分かりません。数年経つと、役所やお寺、親戚までもが、
「もう諦めて供養してやれ」
と勧めて来ます。しかし、保志さんの葬式を出そうなどとは一度も考えたことがなかったそうです。

子供がいなくなって、親が一生懸命探してやらなかったら、一体誰が探してくれるんや、という、保さんにとって、「親として当たり前の こと」という一念で。



第2章 家族

保さんは2歳の時に父親と死に別れ、父親代わりの叔父さんから口癖のように、
「お前は早く一本立ちしなきゃいかん」
と言われていたため、大工になる決心をし、小学校を卒業してすぐに大工の弟子入りをされました。

小学校を卒業してすぐに働くなんて、今の小学生を見てると考えられず、本当に驚いてしまいますが、そういう時代だったのですね。自立心や責任感というのは、きっと今の子供とは比べものにならないのでしょう。

余談ですが、20代、30代になっても仕事もせず、あるいはアルバイトを転々として、親の世話になりながら暮らしている今の世代を見て、保さんの年代の方はさぞ呆れてらっしゃるだろうなと思います。

かくいう私も、30歳を過ぎても「子供を産み育てる自信がない」などと言っているのですから、同じように嘆かれてしまうだろうと思うと、すごく恥ずかしくなってしまうのですが。

戦時中、軍属に所属していた保さんは、手榴弾を投げる訓練中、投げる前に手榴弾が爆発してしまい、右手の親指、人差し指、中指の一部を失いました。声を上げて泣きましたが、痛みのせいではなく、これで国の役に立てなくなってしまったことが悔しかったから。

それほどまでに国を思い、命を捧げていた保さんが、20数年後の拉致事件について、自分たちに何もしてくれない国に対してどんな思いを持たれただろうと察すると、お気の毒に思えてなりません。

右手の主要な指3本という、1番よく使う体の部分なのですから、日常生活で常に不自由な思いをされて来たでしょう。そのたびに、国に対しての悔しさというか、無念な思いがこみ上げて来たのではないかと勝手に想像して、私まで悔しくなりました。

終戦後、21歳の時、知り合いの紹介で と志子さんとお見合いをします。雨が降っていたので、番傘をさして、見合い場所のまんじゅう屋さんへ向かったそうです。
番傘でまんじゅう屋さんというのが、またも「そういう時代だったんだなあ」と胸が温かくなる気がしました。
しかし、昭和20年代の町並みというのがどんなだか私には全く分からず、まるで江戸時代のような建物を、番傘を閉じて入って行く保さんの姿しか思い浮かべることができない自分自信の想像力が情けない。

保さんは、「体が丈夫なら、顔の美醜など問題にもしてなかった」そうで、これも「そういう時代だったんだなあ」と驚かされます。
しかし と志子さんはそんな心配をよそに、「丸っこい顔して愛くるしい」お嬢さんだったそうです。

ちなみにこの「体さえ丈夫なら誰でもいい」というのは、よく働いて子供をたくさん産めればいいと、まるで妻を子供産みマシーン兼家政婦のように思ってるかのようで、あまり好きではないのですが、戦後の時代ではそれが必要だったんでしょう。
それに前の章で書いたように、後に保さんはあれほどの愛情をと志子さんに注いでいたのですから、恋愛結婚したとしても簡単に離婚してしまう現代の一部の夫婦よりも、はるかに深い夫婦の絆があったといえます。「参りました」と言うよりありません。

4年後、長男の広さんが、その2年後には保志さんが産まれます。

兄の広さんは、家族会での活動や、マスコミの前には一切出ていませんから、私はずっと保志さんは一人っ子なのだと思っていました。
この本の最初のページにある、幼い頃の広さんと保志さんの写真を見て、「え、『兄の広さん』って、お兄さんがいたの?」と目を疑うくらい驚きました。

同時に、もう1人の息子さんをマスコミから守り抜いた、保さんの強大さと もう1人の息子さんへの愛情を強烈に思い知りました。

『家族』の感想でも書きましたが、拉致被害者救出を訴える立場として、マスコミの前に出て行くのは、大変なことだと思います。日本中に顔を知られるわけですから、いったんTVの前に出たが最後、静かに暮らしていた日々は2度と戻って来ません。そしてご家族の思いに共感してくださり、協力的な人ばかりではありません。中には批判や中傷をする人達もいます。そんな渦の中に、もう1人の大切な息子さんを巻き込みたくなかったのでしょう。

母の介護をしながら、寒い日も炎天下でも署名活動をしたり、全国を飛び回って救出活動をする年老いた父の姿を見て、保さんの息子さんなら平気でいられたわけがありません。何よりご自身の弟さんのことなのです。自分が代わると申し出たこともあったのではないかと思います。

しかしとうとう保さんは、ご自身だけでやり遂げました。
「子供を守るのは親の仕事だ」と考えてらっしゃったのかもしれません。その強い意思を貫かれたことは、本当に見事で、ただただ天晴れです。

保志さんが22歳の時、富貴恵さんとお付き合いを始め、すぐに保さんは、
「よその家の大事なお嬢さんなんやから、ズルズルと付き合うのは良くない。けじめをつけい」
と釘を刺したそうです。一本筋の通った、誠実な保さんらしいな、と思いました。

そして結納を交わすのですが、富貴恵さんの親代わりで、兄の雄幸さんとは、保さんは不思議な縁あって顔見知りだったそうです。
なごやかな雰囲気で結納を済ませ、富貴恵さんもとてもいい娘さんだと、保さんもと志子さんも喜びました。結婚式や旅行の日取りも決まり、地村さんと浜本さんの両家は、安堵と幸せの絶頂だったはずです。

2人が失踪してしまい、結婚式のキャンセルはいつ頃したのだろうと、結婚式場でアルバイトしてるせいか、そんなことにまで考えを巡らせました。ヒョイと帰って来るかもしれないから、とできるならキャンセルはしたくなかったのではないかと思いますが、招待客の都合を考えて、頃あいをみてキャンセルされたのだろうとは思いますが。

式の予定日の当日をどんなお気持ちで迎え、過ごされたのでしょうか。保さんと と志子さんももちろんですが、北朝鮮にいた保志さんも富貴恵さんも。

最良の日になるはずの結婚式を経験できず、特に富貴恵さんは、女性の夢であるだろうウエディングドレスや色打掛を着ることが出来なかったのです。帰国された今、衣装を着てお写真だけでも撮られないのかな、と余計なお世話ながら考えてしまいます。

満月の夜、保志さんの夢を見たといって泣いていたという と志子さんの項を読んで、夢というのは時に残酷なのだなと切なくなりました。
せめて夢の中で会いたいと願って、それが叶ったとしても、目が覚めた時に余計悲しくなってしまう。
この夜、本当に北朝鮮にいる保志さんも、月を眺めて と志子さんのことを思っていたのかもしれない、と何となく思いました。

と志子さんが亡くなった項は、何度読み返しても涙が出て来ます。保さんがどれだけと志子さんを愛していたか、大切にしていたかが、心から伝わって来るのです。

なんて素晴らしいご夫婦なのでしょう。保さんのと志子さんへの愛情物語を知ることが出来ただけでも、この本を買った価値は十分にあったと思いました。

2002年10月17日。帰国した拉致被害者の方々が、福井と新潟のそれぞれの故郷へ帰還しました。奇しくもこの日は私の誕生日だということもあり、とても嬉しい気持ちで、24年ぶりに故郷の地を踏みしめる保志さんと富貴恵さんをTV画面で見つめていました。

そして、多くの方がもらい泣きしたであろう、保志さんがと志子さんの仏壇にお参りした時の映像。本当に、あと半年保志さん達の帰国が早かったら。と志子さんが長生きしてくれていたら。考えても仕方のないことだと分かってはいても、そう思わずにはいられません。

しかしそれについて保さんは、
「今ではこれでも良かったと思う。北朝鮮でさんざん苦労してきた2人に、介護の苦労までさせるのは可哀想や。家内もきっとそう思って、一足先に逝ってしまったに違いない。本当にやっちゃんを愛しとったから」
と記されていて、なんだかたまらなくなりました。

帰国後、保志さんはずっと、と志子さんの写真を胸の内ポケットに入れて、肌身離さず持ち歩いているそうです。
保志さんに会いたくて会いたくてたまらなかった と志子さんは今、保志さんの胸のぬくもりを感じながら、今はずっと一緒にいるんだなあと思うと、胸が熱くなるような、何とも言えない気持ちになります。

これほど思い合っている母子を引き裂いた北朝鮮に、改めて強い怒りを感じながら。



第3章 結束

保志さんの失踪が北朝鮮による拉致だと確信を持っていた保さんは、警察や、選挙前にはあらゆる選挙事務所に足を運んだそうですが、手ごたえはありませんでした。

しかしここ数年は、政治家の方から声がかかるようになっています。
ただそのほとんどが、蓮池透さんの手記にもあるように、客寄せやイメージ戦略の道具として利用されるだけといいます。それが分かっていても、家族の方達は、少しでも世論が高まるのならと行くしかない。

ご家族のわらをもつかむような思いを、自分の利益のために利用するなど、人間としてどういう心を持っているのだろうと思います。良心や恥はないのか。

拉致がまだ全く認識されていない当時、保さんは署名活動から始めました。署名は今も続けられていますが、確かに、私たち一般庶民が出来ることはかなり限られています。政治家や総理に面会を求めても断られる。官邸前での座り込みも無視される。(マスコミが報道してくれれば、世論の高まりという点では効果はありますが)

片っ端から家を訪れた中には、朝鮮総連の人にものすごい剣幕で怒られたり、凍った道で何度も転んだそうです。男女の取り込み中のお宅もあったことについては、「たはは」と苦笑してしまいました。

また、集会で腹痛になった話もおかしくて、思わずクスクス笑ってしまいました。
ただ、こういう「笑える」エピソード(保さん自身は大変だったでしょうが)を入れることは、まだご家族が帰って来ていない方の場合、もし手記を書かれたとしても盛り込まないでしょうから、保さんが「これからも心をひとつにして進んで行く」と言っていても、やはり家族が帰って来た余裕とかいうか、差が出て来てしまうのだなあと感じました。もちろんそれは、人として当然の感情だと思いますが。
それにひょっとしたら、共同執筆者である岩切さんが、数多く語られたエピソードの中から、保さんの人間くささを出そうと考えて、あえて加えたのかもしれません。


ご家族の願いは、北朝鮮に連れて行かれた家族を取り戻してもらいたいということ。
拉致は人権を無視した重大な国際犯罪なのだから、毅然とした姿勢で対応して欲しいこと。
食糧支援は、本当に飢餓で苦しんでいる国民に届くことなく、上の人間の口だけに入り、残りはお金に換えられ、核やミサイルの資金になっていることが今や周知の事実なのだから、食糧支援はしないで欲しいこと。

こんなシンプルで簡単なことが、なぜ政治家は分からないのか。そして普通の人間としての感情があれば、ご家族の方達の気持ちに少しでも理解し、自分に出来るやらずにはいられないと思うのですが。

マスコミに対しては、「隠し撮りされたり、根拠のないような記事を面白おかしく書き立てられたりして困惑することもあんのやが、わしらはマスコミの人達に助けられてここまで来た思うとる。ほんま感謝しとるんや」とあります。

この本が出る前か後だったのか分かりませんが、「次男の清志さんがタバコを吸っていた、北朝鮮では吸える年齢だったという」というような記事が出て、地村さん側が事実ではないと抗議し、訂正を求めたことがありました。

帰国の際は「おめでとうございます!」「良かったですね!」と必要以上に追いかけ回して放送しておいて、一方では地村さん達を傷付けるようないい加減な記事を掲載するとはどういうことなのでしょう。話題性があれば何でもいいのかと本当に腹立たしくなります。



第4章 明暗

2002年9月17日の小泉総理訪朝は、突然だったので私も本当に驚きました。

保さんは喜ぶ反面、保志さんが本当に無事で元気にいるのだろうかという不安が沸いたそうです。
他のご家族も、解決にはトップ会談しかないと思っていましたが、逆に言えば、そこでまたも拉致を否定されてしまったら解決は見込めないということになる。正に運命の分かれ目となる日になるわけで、それぞれのご家族が心身ともにひどく疲労した様子は、『家族』にも書かれてあります。

それなのに、そんなご家族の思いとはうらはらな政府の無策ぶりが、「4人生存、8人死亡」などという北朝鮮の言い分を許してしまい ました。本来なら、事前に十分にご家族と話し合い、あらゆる対策を用意し、あらゆる方法で北朝鮮を追い込み、その集大成として総理訪 朝をするべきでした。
北朝鮮が拉致を認めたのも、経済的に切羽詰っていた時期と小泉訪朝のタイミングがたまたま合い、認めて謝罪する代わりに援助を取り付 ける目的だったという見方か濃厚で、もしもそれが事実なら、日本政府が引き出した手柄でも何でもないことになります。
いったん「死亡」としたものをくつがえすには、かなりの駆け引きと圧力が必要になるでしょう。(あくまでもこれまでの日本の姿勢 ではという前提で、本気でやればむしろ容易ではないかと思いますが) このような現在の事態を引き起こした日本政府の責任は本当に 重い。
岩切さんの注釈によると、本来ならばこの安否報告は、1999年の会談で北朝鮮側が約束した「行方不明者」調査再開の回答と して、3年前に出されていて当然のものでした。3年近くも時間を無駄にし、トップ会談という最大のチャンスの場を、とっくに引き出し ていなければならなかった情報(しかもいい加減なもの)であしらわれたのです。
拉致事件についての記事やご家族の著書を読むほどに、家族の方の苦しみと共に、政府の無能無策ぶりが次々に浮きぼりのようにはっきり して来ます。

保志さんは生きており、富貴恵さんと結婚して子供も3人いるという本来ならば嬉しいはずの報告も、死亡と報告されたご家族への思い、また本当に保志さんなのかという疑惑もあり、素直には喜べない。

そして、福田官房長官のぶっきらぼうで思いやりのかけらもない話し方。ものの10分で報告は終わったというのだから驚きです。本人確認の材料もなく訪朝し、何も確かめて来なかったという、ただ 「行った」 だけの政府。『家族』でも書きましたが、4半世紀もの間、取り戻すために命がけで闘っているご家族に代わって会いに行くということを、一体どう考えているのか。

会見での蓮池透さんの、厳しく(というか当然のことであるし、むしろまだまだ抑えておられると思いますが)的確なコメントは、変わらず納得させられました。

また横田早紀江さんの気丈なコメントと、悲しみの中にいながらも生存とされたご家族を気遣う優しさに、保さんも感動されています。早紀江さんの著書の感想で詳しく書くつもりですが、本当に早紀江さんという方は、尊敬に値する優しさと謙虚さをお持ちのでいらっしゃいます。

会見でのご家族の様子は本当に痛々しく、共に気持ちを分かち合ってきた保さんは、きっと我が事のように同じように辛い思いをされていたと思います。
「こんなことなら、うちの保志も死亡にしてもろたほうが良かった」というのは、一見きれいごとのように聞こえるかもしれませんが、本当に本心だったのだと思います。

翌日、小浜へ帰る新幹線の中では、周囲の方々から「良かったですね」と声をかけられたそうですが、他のご家族のことを思うと喜べなかったそうです。

「拉地被害者やご家族の方に言わない方がいいと思う言葉」で、「良かったですね」という言葉を取り上げましたが、安否不明の方々の状況はこの時と変わっていない(2006年3月現在)ので、やはりこの言葉は控えるべきだと改めて確信しました。



第5章 帰還

保志さん達の一時帰国が発表されたのは 総理訪朝の数日後すぐにだったので、私はてっきり、訪朝の時点で帰国を要請しており、正式に 日取りが決まったのだと思いました。

しかし本を読むと、保さんも雄幸さんも、帰国は出来ないだろうと諦めていたそうです。もちろん、はっきりするまで帰国の交渉をしていることをご家族には伏せていたのかもしれませんが。

帰国前日の夜、保志さんの兄、広さんを思いやる一文がありますが、広さんのことについて書かれているのは、後にも先にもこの部分だけです。(生まれた時や保志さんへの手紙、帰国した時などは、名前だけ出て来るのみ)
改めて、もう1人の息子を守り抜いた保さんの徹底ぶりを思い知らされます。

帰国した空港での様子は、仕事中でしたが、私もTVを観ていました。いつもは停まってる時以外はTVは点けないようにしているのですが、この時ばかりは気になって仕方なかったので、点けていました。よりによって山沿いを走る仕事だったため、電波が悪く、しょっちゅう乱れる画面をイリイリしながら観ていたのを覚えています。

「北朝鮮で洗脳されてしまっているのではないか」
と日本中が危惧し、固唾を飲んで見守る中、最初に姿を見せた富貴恵さんが笑顔で大きく手を振ったのを見て、多くの方がホッとしたのではないでしょうか。出て来る順番はたまたまだったのでしょうか、保志さんと富貴恵さんが最初で本当に良かった。

それぞれのご家族が抱き合う姿は、本当に感激的でした。しかし当のご家族にとって、嬉しいばかりではなかった。保さんも、保志さんを抱きしめた時、骨はった体に驚かれたそうです。

ホテルに移動する際のバスは、カーテンが閉められて、せっかくの秋晴れの東京の景色も見れずに、一転して重苦しい雰囲気だったそうです。
確かに、この時のマスコミの報道は異常でした。私もTVを観てたのだから偉そうなことは言えませんが、観ながらも、「ここまで追いかける必要があるのか」と思っていました。
空港からホテルに移動するのなんて当たり前のことなのだから、「ホテルに移動されました」という一言でいいはず。過熱しすぎの報道体勢は不快でしかありません。

翌日の、今回帰国が叶わなかったご家族と被害者の方達との面会は、どんな話が出て来るのか、私も注目していました。

横田めぐみさんについては、出産や育児の相談を受けたとか、乳母車を押している姿を見かけたことがあるなど、
「普通は妊娠や出産、育児については、母親に相談に乗ってもらい、支えてもらうものなのに、めぐみさんはよく頑張ったな」
と、その情景を想像して改めて思いました。特に初めての出産の時は、何も分からなくてとて不安だったでしょうに、一体どのように乗り越えられたのかと思うとたまりません。

増元照明さん(増元るみ子さん弟)は、父の正一さんが危篤の中、るみ子さんの話が何か聞ければと後ろ髪引かれる思いで上京されていたのですが、何ひとつ情報はなく、私も落胆しました。この日の夜、正一さんは意識がなくなり、数時間後に亡くなりました。

5人の帰国はあくまで一時的なものということで、子供さんも向こうに残して来たわけですが、こちらのご家族としてはもう戻したくないと思われるのは当然のこと。
それぞれの故郷に買える前日の夜、全員がそろっているうちにと、北朝鮮に戻る日のことをおおまかに決めようとしたそうですが、これも配慮に欠けている行為だと思います。

あくまで一時帰国という約束で、あらかじめ予定を決めておかないと大変なのは分かりますが、これまでの20年以上の時間を考えると、ご家族がもう戻したくないという気持ちになられるのは安易に予測できるはず。そういう前提で動いていないことが、親身になってご家族の気持ちを考えていない証拠であると言えるのではないでしょうか。



第6章 決意

5人の永住方針を政府が発表してから、子供さんが帰国するまで、1年7か月という時間がかかりました。

保志さん達が拉致された7月7日の集会やお正月など、節目を迎える時には特に、
「ああ、今年のこの時も、子供さんが帰らないまま過ぎてしまった」
と無念さを感じました。

しかし私は、「日本政府は子供たちは必ず取り戻すだろう」という確信は持っていました。5人の方の帰国で、あれだけ世論が高まり、 子供さんと離れ離れになっているという事実を国民が忘れるとは思えない。政府は取り戻さずにはいられないはずです。

しかしそれはあくまでも第三者の冷静な見解であり、親であり、北朝鮮の恐ろしさを身を持って知っている保志さん達だからこそ、リアルに不安な予想をしてしまっていたのでしょう。

保志さんは4月から市役所へ勤務。仕事ぶりについては評価が高いと聞き、「うんうん、そうでしょう」と、保志さんの身内でもないくせになぜか得意になり納得していたのですが、保志さん自身は、職場になじむほどに、同年代から遅れを取っている24年間の差を思い知らされたそうです。

保さんは建築業を営んでおり、保志さんは後を継ぐつもりでした。しかし保志さんの失踪後、保さんは家族会に参加するのと同時に会社を閉鎖。帰国した保志さんも、年齢的に再び大工の見習いになるというのは無理があります。拉致などに遭わなければ、「地村建築」の2代目として立派にやっておられたはずなのに。

また、保志さん達が小浜市から提供された家は、けっこうな築年数の古い家だったと記憶しています。本当なら富貴恵さんと結婚後、きっとご自身で家を建てていたでしょう。せめて家だけでも、保志さん達が設計したものを建てて提供してあげればいいのにと思ったものです。

しかし、中にはそうしたことで税金を使うことに反対する人もいるようです。「5人をいつまでも特別扱いするな」とか、市役所に就職したことをねたんで非難する人もいるようです。無意味な公共事業に投資したり、横領したりしている国会議員は大勢いるのだから、そちらの方がよっぽど責められるべきなのに、そちらは気にならないのでしょうか。不思議です。

TVで日本中に顔が知られたことによって、もうひとつ地村さん達が窮屈に感じているのではないかと思うことがあります。それは、必要以上に「いい人」でいなければならないのではないかということ。

コメディアンの方が普通にしていても「愛想が悪い」と言われるように、絶えず笑顔で 愛想良く周囲の人に対応しなければならなくなっているのではないでしょうか。
例えば、レストランに食事をしに行った時、店員のミスで、注文した料理が1品出て来なかったとします。店員の対応の仕方にもよると思いますが、おそらく大半の人は、ちょっと憮然としたり あるいは諦めた表情で「まあ、もういいですけど、気を付けて下さいね」という感じになるのではないでしょうか。もともと保志さんや富貴恵さん、そして保さんは、こうした場合も声を荒げて怒ったりする方ではないと思いますが、前途のような普通の対応すら出来ずに、
「なんだ、あの態度は。私たち国民のおかげで帰って来れたくせに」
と思われるかもしれないと心配し、
「いえいいですよ、気にしないで下さい」
と常に必要以上ににこやかに対応しなければならないというか、してしまうのではないかと思うのです。

どうか地村さんと接する全ての方が、広く温かいお気持ちを持っていて下さっていますよう、願うばかりです。

8月、NGOの小坂氏という人物が長女の手紙を持ち帰り、世間もマスコミも騒然となりました。すぐに保志さんらに手渡さずに マスコミに発表したことなど、揺さぶりをかける北朝鮮に協力するかのような小坂氏の行動には、家族会から戸惑いや批判の声が上がりました。

また、小坂氏が封筒に書いた地村という覚え書きの字が「池」村と間違えていたことに対し、保志さんは「親身になって家族のことを考えているとは思えないと批判。

透さん(蓮池薫さんの兄)も、この頃だったと思うのですが、小坂氏とTVの報道番組にゲスト出演し、氏に対して直接不快感をあらわにされていました。

5月に総理の再訪朝が決まり、胸を撫で下ろしたのもつかの間、子供たちは総理と面会し、日本行きを希望した場合のみ、帰国が可能になるとのこと。
これは当然北朝鮮が提示してきたのでしょうが、それをそのままご家族に伝えたということで、一体どこまで政府は無能なんだと呆れます。

北朝鮮にいる限り自分の意思など言えるわけがない。それはもう明らかであるし、保志さんらが保さんに「北朝鮮に来て欲しい」と言っていたことが何よりの証拠です。
それなのに、条件を提示された時点ですぐに断り交渉するのが当然なのに、のうのうとご家族に「〜なんですって」とそのまま伝えるのはどういうことなのか。

保さんは、「あの国では自分の意思など言えないのだから、何がなんでも一旦日本に帰国させて欲しい」と伝え、別に連絡を受けた保志 さんも同じことを言ったそうで、保志さんもそう言うなら、やはりあの国はそうなのでしょう。

子供さんが帰国される日は私もワクワクして、もちろんTVも観ていました。てっきり保志さん達が空港で待つ様子や 記者会見などの中継があるのだろうと思っていて、子供さんの姿はもちろん、名前は伏せておくのかもしれない。その方がいいなと思っていました。
なので、平壌の空港がTV画面に現れ、中にいる子供さんたちの顔が映し出された時には、息が止まるくらい驚いた。

「家族の方には許可を取ってあるのか!?」
とものすごく焦ってしまったのですが、今思えば、報道を望まないなら事前にそう申し伝えたでしょうから、ちゃんと了承は取ってあったのでしょうけど。

保さんがお孫さんと初めて会った時のことも、すごく感激しました。

長男の保彦さんは 若い時の保志さんにソックリだとすぐに分かり、次男の清志さん、長女の恵未さんは誰似だろうと思っていたのですが、清志さんは若い時の保さんに、そして恵未さんは、と志子さんの若い時に瓜二つなのだそうです。
そうだったのか、思いました。保さんは全身に震えを感じ、と志子さんと会ったあのまんじゅう屋さんでのことが、昨日のことのように蘇ったそうで、これまた感動しました。

これまで、子供さん3人がTVに映ると、どちらかというと男性の保彦さんと清志さんに目が行ってしまってたのですが(2人ともハンサムですし)、これからは恵未さんを見てしまいそう。
本の最初の写真でも、じっと恵未さんの笑顔の写真を見て、若き日の と志子さんを思い描いてました。

確か、東京のホテルへは1泊の予定だったのを、子供さん達が東京の夜景に感激していたので、もう1泊されたんですよね。電力が不足している北朝鮮では夜景など見れなかっただろうので、日本はこんなにキレイで豊かな国なんだという、いい印象を持って欲しいというご家族のお気持ちはよく分かります。

きっとこれについても、「(宿泊料は)税金なのに!」というくだらない批判の声が出るかもしれないことは覚悟の上で、何より子供さん達が「日本に来て良かった」と思ってくれることを全てと考え そうされたことに、強い愛情と決意が伝わって来ました。

子供さんの様子は、会見で保さん達が話されていて、応援してくれた国民に対してお礼の意味での報告と、喜びを語ることで、「ああ良かったな。他のご家族にも、そう思える日が早く来るようにしなくては」と世論をさせようとお考えだったのではないかと思います。

しかし反面、安否不明の被害者の方達と、今回ご家族の帰国が叶わなかった曽我ひとみさんのことを思うと、心苦しかったと思います。喜びの反面、同じだけ申し訳なく、辛い思いをされたはずです。

そして今も、曽我ひとみさんのご家族は帰国されましたが、いぜん安否不明の方々の状況は全くといっていいほど変わっておらず、保さん達の心痛は続いているでしょう。一刻も早い解明を願うばかりです。

3人の子供さん達は本当に明るく、いい子だそうです。蓮池さんの子供さん達も同じだそうで、それぞれのご両親のお人柄のおかげなのはもちろん、北朝鮮でおそらく唯一の希望であった子供さん達へ、愛情を全力で注がれたからなのではないかと思います。

出世なんかしなくていい、まっすぐな日本人になって欲しい。両親に感謝し、目上の人や年寄りを敬う心を持っていれば、悪いことをしたり、他人に迷惑をかけることもない。そして日本に来て良かったと子供さん達に感謝してもらえるように、命ある限り、日本を良い国にして行かねばならん、と保さんは語っていて、本当に素晴らしいお考えです。人間として一番大事なことを教えてくれる、こんなおじいさんを持って、お孫さんたちは幸せですよね。
日本をしょって立つ総理や政治家には、こういう方がなるべきだと本当に思います。

先祖が繋いで来た延長線上に自分の命があるということを忘れてはならない、という保さんの言葉に、私自身はお墓参りもほとんど行ったことがなく、ご先祖への感謝も普段全くといっていいほど意識してないので、ちょっと反省してしまいました。

「未来に続く地村家の人たちに語り継いでもろて、未来永却、幸せが続くことを祈っておる」
という一文を読んで、そうか、保さんは 「地村家」 を取り戻したんだということを感じました。

北朝鮮にいるままだったら、保志さん達は向こうの姓を名乗り、子供たちは北朝鮮で家庭を持ち、代々北朝鮮で生きて行くことなっていました。
「地村」家を再び日本に呼び寄せ、再び日本に根を張らせることに成功した。保志さん達の子供たち、その子供たちに続く子供たちが永遠に、日本で生きて行けるようになった。
保さんの果たした十分な功績は、先祖の方々もきっと深く感謝しておられるに違いありません。

帰国した被害者の方達、子供さん達が「帰って来て良かった」と思ってもらえるため、日本をいい国にして行かなければならないという責務は、全ての国民が担っていることを自覚しなくてはなりません。

そして、まだまだ多くの人達が北朝鮮で助けを待ち続けていること、ご家族が帰国されても決して心から喜べずにいる人達が、今も闘い続けていることを忘れてはならない。





 「めぐみ、お母さんがきっと助けてあげる」
(横田早紀江 著/草思社)

横田めぐみさんの母、早紀江さんの手記。
めぐみさんが北朝鮮にいるということが分かった2年後の1999年に出版されました。しおりのヒモがついていないのが少し残念です。

タイトルは、早紀江さんの率直なお気持ちがとてもよく表れていると思います。ことあるごとにこの題名の言葉を思い出し、「この気持ちで早紀江さんは頑張っておられるんだな」 と実感します。

当時のめぐみさんの年は34歳で、私がこれを書いている2006年には41歳になられます。あれから7年近く経っているのに、未だめぐみさんの帰国が叶っていないことに改めて落胆し、この7年間の間の 横田さん夫妻の心中を思わずにはいられません。昨年のめぐみさんの40歳の誕生日の日、TVの取材に対し、
「(めぐみさんが)40歳になるまでには取り戻したかったのですが…」
というようなことをおっしゃっていました。
もちろん1日も早い帰国を願っていらしたのでしょうが、ひとつの目安として、「30代のうちにはきっと取り戻せるだろう。そうできるように頑張ろう」と決意されていたのではないかと思います。

本のどのページをパッと開いてみても、早紀江さんがひたすらめぐみさんを求め続けている文章が目に飛び込んで来ます。

そして帯の後ろ部分に引用されている本文からの抜粋、
「何の理由もなく、夢多き青春を摘みとられ、暗黒の世界へ囚われていった子どもたち。厳しい監視の中で息をつめて望郷の思いに涙しているであろう子どもたちちの20年を考えると、胸をかきむしられる思いがし、身代わりになるものなら、今すぐにでも飛んでいって代わってあげたいという思いでいっぱいです」
という一文に、早紀江さんの母親としての心情が全て凝縮されていると思います。



第一章
ある日突然、娘がいなくなった

めぐみさんが失踪したのは学校のクラブ活動の帰り道で、なかなか帰って来ないめぐみさんを探しに出た早紀江さんの様子が詳細に書かれてあり、読んでいるこちらまで動悸が早くなって来るような気がしました。

すぐに思い浮かぶのはやはり事故か誘拐であり、海岸に停まっていた数台の車に尋ね回り、トランクに入れられているのかもしれない、としばらく見ていたという所を読んだ時は、何ともいえない気持ちになりました。

現場の警察には本当に一生懸命捜索してくれ、早紀江さんは今でもとても感謝されているそうです。
しかし私は、「週刊文春」の記事のことを読んで愕然としました。それによると、警察幹部はめぐみさんが北朝鮮に拉致されたという証拠を持っていながら、政府に公表せず、何10年も握り潰して来たというのです。めぐみさんを連れ去った工作船も特定できていたそうです。

もし政府に報告していても、政府もあのように頼りにならない状態ですから、拉致が解明されない状況は同じだったかもしれませんが、だからといってこの隠ぺいが許されるものではありません。警察幹部は、めぐみさんと横田さん夫妻を見捨てただけでなく、懸命に捜査に携わった多くの現場の警官の労力と、捜索にかかったであろう莫大な額の税金を無駄にしたのです。

幹部ならばきっと給料も良く、すでに退職した人がいるとすれば、何千万円もの退職金を受け取ったはずです。政治家もそうですが、警察は国民の生活を保障し、守るためにあるはずです。その任務を果たしていないなら、国民の税金から支払われている給料や退職金は、受け取る資格はないのではないでしょうか。

また、政府が動いてくれなかったとしても、拉致という事実が明るみになっていれば、家族会の結成をはじめ、拉致問題解決への動きが早まっていたはずです。
何より、めぐみさんの消息が分からずに苦しんだ20年間を、横田さん夫妻が過ごさずに済んだのです。

めぐみさんのいない悲しみは変わりませんが、それても事故なのか家出なのかとあらゆる想像をめぐらせ、育て方がいけなかったのかと絶望したり、「先祖の因果関係が原因です」と占い師に言われ、誠実だったご両親を思って涙したりすることはなかったはずです。

また、めぐみさんに似た新聞や雑誌の写真、絵のモデルなどを見つけるたびに、確かめるために日本各地に行かれたそうで すが、それによる精神的消耗と経済的負担も、必要なかったのです。



第ニ章
五人家族のにぎやかな食卓

めぐみさんが生まれた時のことから幼少の頃のこと、またどんなふうに楽しいことを言って家族を笑わせ、友達を思いやり、習い事を熱心に頑張ったかなど、13歳までのさまざまな思い出を、ひとつひとつなぞるようにつづられています。

中でも、小学6年生の時に書いたという作文は、とても文章がしっかりしていて、小学生の子が書いたとはちょっと思えないほどです。 めぐみさんは本か好きでよく読まれていたそうなので、自然と文章力も身についていたのでしょう。

早紀江さんがおっしゃるように、あんな事件に遭遇しなかったら、めぐみさんはどんな仕事に就き、どんな女性になっていたのでしょうか。

めぐみさんがいなくなり、少しでも気が紛れるならと飼い始めた犬、リリーのことについては、コンテストで2位になりメダルをもらったら、「家の中でメダルをもらったのはリリーだけだね」と家族で笑い合ったとあります。決して心からの笑いではなかったでしょうが、それでもやはり、リリーが少しでもご家族の中に笑顔をもたらしてくれたんだなあと、ほんの少しホッとしました。

しかし、リリーは15年以上生き、めぐみさんと過ごした13年より長かったということは、ご夫妻にとっては複雑で切ないことだと思います。
めぐみさんは動物好きだったので、リリーが生きてるうちに帰って来て会えたらいいね、とご家族で話していましたが、結局それは叶わなかったわけですが、リリーもきっとめぐみさんに会いたかっただろうなと思います。

めぐみさんの双子の弟さんが、日本政府やアメリカ大統領に厳しい内容のメールを送っていることに対して、早紀江さんは、
「あなたはまだ若いのだから、そんな偉そうな言い方をしちゃいけないよ」
とたしなめたこともあるそうです。何もしてくれない日本政府に対して、厳しい言葉を投げかけたいのは誰よりも早紀江さんであるでしょうに、息子さんに、年上の人に対して敬意を表すことを冷静に教えていることに、何て人としての謙虚さを持ち合わせていらっしゃる方なのだろうと思いました。



第三章 手がかりを求めて

誘拐の狂言電話をかけてきた男子高校生は、本当に許せないことです。

早紀江さんは1時間近くその男と話していたそうですが、その中での、
「あなたはまだお若い方だと思いますけれど、何でそんなに若い身で、警察に追われるようなことをなさるんですか。人間はおおっぴらに生きられるほうがいいでしょう。めぐみのことが本当に好きなら、お嫁さんにあげるから、みんなで一緒に仲良く暮らしませんか」
というお言葉には感動しました。
「お嫁さんにあげるから」というのは、めぐみさんの気持ちもありますし もちろん本気ではなかったと思いますが、「おおっぴらに生きられる方がいいでしょう」という言葉には、早紀江さんの真っ直ぐさと、相手の男への人としての思いやりをすごく感じました。

しかしこの男子高校生とその親からは、謝罪はなかったそうです。事件や事故で、加害者が被害者に一切謝罪しないという話は時たまに聞きますが、一体どういう神経なのでしょう。
この本が発行された99年には、この男子高校生は30代半ばになっているはずで、めぐみさんが北朝鮮に拉致されたということも耳に入っているだろうに、「あの時は本当に申し訳ありませんでした。めぐみさんが1日でも早く帰って来られるように祈っています」という手紙の一通くらい書けないのでしょうか。

20数年間、早紀江さんはどんなに親しい人に招待されても、結婚式に出席することが出来なかったそうです。(今もかもしれません)
私はアルバイトで何件もの披露宴に立ち会っていますが、新郎新婦のお2人が喜びにあふれ、それぞれの家族の歴史と愛情を最大限に感じるこの日は、確かに早紀江さんの立場ではあまりにも辛く、涙なしではとてもいられないだろうと思うと、最近はアルバイト中にふっと早紀江さんのことを思い出し、切なくなることがあります。

専業主婦だった早紀江さんは、滋さんとめぐみさんの弟さん達が会社と学校に出かけて行ってしまってから、家で1人きりでいて、どんなにお辛かったろうかと思います。
私も休日に1人で家にいると、退屈でいろいろなことを考えてしまうし、寂しくて気が滅入ってしまいます。何でもない状態でもそうなのですから、めぐみさんの失踪という深い闇を抱えていた早紀江さんは、どれだけ心が潰れそうな時間を耐えなければならなかったのでしょう。

かといって わざわざパートに出ることは、気力がなかったでしょうし、めぐみさんがヒョイと家に帰って来たり、消息の電話がかかって来るかもしれないと思うと、家を空けることも出来なかったのではないかと思います。そういう意味でも、失踪理由も消息も分からないというのがいかに「生殺し」であるということが分かります。

84年、聖書の言葉に救われた早紀江さんは洗礼を受け、キリスト教徒になられました。私は無宗教なのですが、このように心の支えになり、ほんの少しでも癒されるならば、宗教はとてもありがたく、素晴らしいものだと素直に思います。
そして早紀江さんの精神的な支えになってくれたのが、お金をまきあげるおかしな新興宗教ではなく、キリスト教だったことは、本当に良かったと思うのです。



第四章 笑うと、えくぼが

めぐみさんが北朝鮮にいるという証言をしたのは、元工作員の安明進氏ということは有名です。

安氏がめぐみさんを初めて見たのは、めぐみさんが20代半ばくらいの頃だったそうです。とても可愛く、若い男性ばかりだった訓練生たちは、めぐみさんを連れて(拉致して)来たという丁という工作員を質問攻めにしたり、「もう結婚してるのかなあ」と噂し合ったりしていたそうです。安氏も、めぐみ さんのことを一番きれいだと思ったから覚えていたのだそうです。

後に安氏が手記をまとめる時、早紀江さんですらとっさに聞かれて答えられなかった めぐみさんのえくぼのことまで触れていて、よほどめぐみさんに目を奪われていたのだとうかがえます。

それほど美しい女性に成長されためぐみさんを、ご両親、特に父親の滋さんは、成長を目の当たりにすることができていらどれほど喜ばれたでしょう。

女性とは、父親は 生まれてから結婚するまでの一番美しい時を共に過ごすことができ、結婚した夫は老いてく姿を見ることになる、という冗談がありますが、滋さんは、10代後半から20代、30代と、女性が外観的に美しい時期を一緒に過ごすこを、丸ごと奪われてしまったのです。

別れ際に早紀江さんから、
「これからは安さんのご家族のために、めぐみちゃんのことと一緒にお祈りさせていただきます」
という言葉をかけられた安氏は、帰ってから号泣したそうです。
早紀江さん達の思いを目の当たりにし、自分達のしてきたことの残酷さを 改めて思い知り、また子を思う親の気持ちに、北朝鮮にいる自身のご両親を重ね合わせたのかもしれません。

そして何より、早紀江さんの優しさに胸を打たれたのではないかと思います。人の痛みや胸の内を理解し、そこまで涙を流すことのできる安氏もまた、素晴らしい方だと思います。

安氏はその後、名前と顔を公表し、堂々とTVの前で証言しています。後から書きますが、拉致問題解決のためには、元工作員たちが証言することが重要だということを考え、早紀江さんの気持ちに打たれ、決意されたのでしょう。
言葉で言うのは簡単ですが、両親と兄弟、そして自分自身の安全と引き換えにするのですから、大変な覚悟だったはずです。

ところがその半年後、外務省が「元工作員の言うことは信用できない」という発言をして、新聞にも掲載されました。これについて滋さんも、もちろん安氏も激しく怒り、外務省はすぐに発言を訂正したとのことでした。
すぐに撤回する程度のいい加減な気持ちで、安氏の命がけの発言を水の泡にしてしまうことに、憤りを感じます。

早紀江さんが同じように涙ながらに訴えても、受け取る側の人間が違えば、かたや全く心に響かずに考えなしで無神経な発言をする者と、かたや自分や家族の命をかけてまで応えてくれる者がいるということです。そして、本来ならば味方になってくれるはずの日本政府の多くの人間が前者であることについて、情けなく、やるせなく感じます。

安氏の書いた手記の中で、
「めぐみさんは真っ暗な船倉の中で40時間以上閉じ込められて拉致された。船倉の中でめぐみさんはずっと「お母さん、お母さん!」 と叫んでおり、出入り口や壁をあちこち引っかいたせいで、着いた時には爪がはがれそうになって、手は血だらけだった」
とあります。早紀江さんはこの箇所を読んだ時、吐きそうになられたそうです。なんというむごい事実なのでしょうか。



第五章 わが身に代えても

1978年3月25日、「『北朝鮮による拉致』被害者家族連絡会」が結成され、署名運動や講演など、家族会としての活動が始まります。

早紀江さんのお知り合いや、めぐみさんが通っていた学校の先生、現在在籍している生徒さんなどとの交流や、講演に行った先の生徒さんのお話は、読んでいてとても心が温かくなりました。
また平成10年、協議会に安明進氏を迎えた時、会食した際の、早紀江さんの息子さんと安氏が腕時計を交換したというエピソードは感動しました。

この時、安氏は記者会見で、
「拉致被害者の人について証言できる元工作員亡命者は、他にもたくさんいるが、話したくない、巻き込まれたくないという立場にあり、私は胸が痛く、また若干憎しみのようなものを感じます。日本政府や国民がもっと強い声を上げれば、その人達も『解決の可能性が見える』と考えて、証言してくれる可能性はあると思います」
と話されたそうです。
責められるべきなのは亡命者ではなく、やはり日本政府であると思います。北朝鮮の恐ろしさを骨身に染みて知っている工作員が、命がけで亡命に成功したのに、あえて再び自らを危険にさらすことなど、誰もがしようとは思わないでしょう。
安氏の証言を、「信用できない」と軽々しく否定する日本政府を見て、
「ほら、命がけで証言したって、この程度でしか取り上げてもらえないじゃないか」
と思っているでしょう。
だからこそ政府は、亡命者の安全を全力で保障すると明言し、1人でも多くの拉致被害者家族、また認定されていない特定失踪者の家族と引き合わせる機会を設け、被害者の方の目撃情報を引き出し、北朝鮮に突きつけるべきなのです。



エピローグ
凛然とした日本人の心で、一日も早い救出を

他の事件で「拉致」された被害者やご家族の方を思い心を痛め、拉致されたご家族としたの気持ち、日本政府への批判の気持ちを改めて語られています。

また早紀江さんのご両親の、人への思いやりと謙虚さ、自然を敬って愛すことの大切さを説いてらっしゃいます。その教えを誠実に受け止め、また子ども達に受け継いでおられる早紀江さんは、なんと人としての優しさ、謙虚さを持ち合わせた素晴らしい方なのかと本当に思います。

心ない人間が大勢いる中、なぜ、このような素晴らしい方がこんなに苦しまなくてはいけないのか、また我が身の私欲しか考えずに拉致問題を棚上げし、人の痛みの分からない鈍感な政治家がのうのうといい暮らしをしていることを思うと、理不尽さにたまらなくなります。



解説 めぐみさんたちはなぜ拉致されたのか

解説は「救う会」の西岡力氏。めぐみさんをはじめとした日本人がなぜ拉致され、どう利用されているのか、大韓航空機爆破事件についてなどが詳しく解説されています。
これまでの「真相解明のチャンス」については、問題提起しなかった政府や警察に対して本当に腹立たしく感じます。

どうしたらめぐみさん達を取り戻すことが出来るのかについては、「ことは単純だ」とし、「北朝鮮が 拉致問題を解決しないでいることが耐えられない状況を、こちらが作り出すことだ」とあります。
現在でも全く同じことが、本が発行された99年から明白に唱えられているのに、未だその状況は作られていません。

続けて「今くらい拉致解決に条件がよい時期はないことが分かる」と、北朝鮮の食料状態について触れています。拉致解決の絶好のタイミングも当時から続いているのです。

「事件解決のチャンス」がこれ以上流れてしまうことのないよう、日本政府には家族会の方達の要望通り、一刻も早く経済制裁を発動するよう切に願います。





 「奪還 引き裂かれた24年」
(蓮池透 著/新潮社)

蓮池薫さんの兄、透さんの手記。帯を含め、表紙のデザインと色合いがとてもいいです。
幼い頃の透さんと薫さんが草むらに並んで座っている表紙の写真も、誰が撮ったのかは分かりませんが、自然な感じでとてもいい。

本の最初の写真で、赤ちゃんの薫さんと並んで、お風呂上りなのでしょうか、幼い頃の裸の透さんが 薫さんと同じポーズでふざけて写っているものが、とても可愛く、微笑ましいです。こんなに無邪気で、ごく普通の子供さんだったお2人が、20年後こんな大きな事件に巻き込まれてしまうのだと思うと、「一体どうして」と改めてやり切れない思いがします。



プロローグ 帰ってきた弟

帰国された日のことは『絆 なお強く』の感想で書いた通りですが、みなさんそれぞれ20年ぶりに再会されて、まず何を言うんだろう、私だったら何を話すだろう、と何とも言えない気持ちでした。
言いたいことは山ほどありすぎて、何から話したらいいのか分からないし、どういう人間になってしまっているのかという不安もあったでしょうし、確かに本人ではあるけれど、年を取って変わってしまった姿を目の前にして、胸が詰まるような思いだったのではないかと思います。

地村保さんは、保志さんに第一声、
「父ちゃん、年のわりには元気やな」
と言われて拍子抜けしたと手記に書いておられましたし、ハツイさん(蓮池薫さんの母)も『家族』で、
「なぜか、心の底からうれしいという気持ちが込み上げてこない。私は冷たい母親なんだろうか」
と語っておられました。もちろんこれは、今回帰国出来なかった他のご家族に対し 申し訳ないという思いもあってのことだと思いますが、それほど24年間離ればなれになっていたという事実は重いものなのでしょう。

透さんも、「よく帰って来たな」というあいさつに続き、次に思わず口から出たのは、
「そんなに痩せて、お前、どこか悪いんじゃないの」
という「無愛想な」言葉だったそうです。

透さんは、薫さんの帰国が決まってから、「(薫の帰国が)怖い」とずっと思っていたそうです。
北朝鮮に洗脳されてはいないか。 どんな人間になってしまっているのか。24年間もあの国で暮らして行かざるをえなかった状況が、弟をどう変えてしまっているのか。それは祐木子さんや地村さんなど、ご家族すべてに共通する不安だったと思います。
24年ぶりの再会でありながら、心から喜べずに、被害者の方々の葛藤の火ぶたが切って落とされたのです。



第一章
二十四年間の”洗脳 ”

透さんが薫さんと激しく言い争いしているということは、透さん自身も当時の会見で話されていましたから、私もハラハラしながら見守っていました。

帰国してから何日目かに、ご家族が(確か透さんだったと思いますが)、
「私達はもう、(北に戻る日の)カウントダウンに入ってしまってる」
と言ってらして、そうか、ご家族の方にとってはそうなのか、と心にずしんと来たのを覚えています。

ご両親や透さん、薫さんの親友の丸田光四郎さんに説得される中、
「俺の24年間が無駄だったというのか」
という言葉を薫さんが言ったというのを聞いて、第三者である私ですら少し辛く感じました。
日本にはもう帰れない、北朝鮮で生きていくしかないのだと悟り、24年間必死で生きてきたはずです。その年月を否定されること、また自分自身でそれを認めなくてはいけないということは、どんなに辛かったでしょうか。

以前読んだことがあるのですが、強盗や立てこもりなどの事件で人質に取られた人は、何時間も犯人といるうちに、犯人に対して仲間意識というか、情が芽生えるそうです。これは極限状態が長く続くとその人自身が精神的に限界が生じて危険なため、無意識に防衛本能が働くためだそうです。

薫さんもそのように、北朝鮮の人間たちを「同胞」と思い込み、日本を憎むことで、平静に生きていくための精神状態を保っていたのではないでしょうか。

一時帰国の中、まだ日本に永住するという覚悟ができていないのに、それを打ち砕いてしまうと、もしまた北朝鮮に戻った時に耐えられなくなってしまう。だから、自分が拉致被害者であること、北朝鮮を憎む気持ちを認めることは、必死で心が押しとどめようとしていたのだと思います。

しかし、とうとう「日本で子ども達を待つ」という決意を、5人の方とも固められました。
この言葉が出るまで、ご家族は、焦りと苛立ちの中で大変な時を過ごされたことと思います。
マスコミや近所の人の「お帰りなさい」というお気楽な歓迎ムードは、素直に嬉しい反面、それどころではなかっただろうなと思うと、国民の1人であった私自身も反省する気持ちになります。



第二章 「あの日」まで

拉致のターゲットに薫さん達が選ばれてしまったというのは、単に「運が悪かった」というだけでは済まされないほど大きな不運だと、 つくづく思います。
何も悪いことはしていないし、自ら危ない場所に出向いて行ったわけでもないのに、北朝鮮にいた24年間はもちろんですし、日本に帰国してからもなお、苦しみを味わされることになってしまうのです。(このことについては『奪還 第二章』で書きます)

薫さんは小学生の時に大事故に3度遭遇されたそうですが、その他は、透さんと共に、大学に行き、アルバイトや恋愛をし、友達と麻雀をしたり野球をしたりなどしていたことが書かれています。本当に、ごく普通の青年としての青春を過ごしていたのです。

当時、神経質な透さんに対し、薫さんは良く言えば大らか、悪く言えば透さんによると「ずぼら」だったそうで、現在の薫さんは、非常に細やかなように見えるので、かなり意外でした。透さんが書かれているように、北朝鮮での生活で変わられたのかもしれません。



第三章 薫は、どこへ…

薫さんが失踪しても、透さんはなぜか不思議に、最悪の事態は想定しなかったそうです。

ご両親は、薫さんの物は見るのが辛いからと、少しの洋服の他は全て処分してしまわれました。
一方地村さんは、保志さんの部屋は全く手をつけずにそのまま残しておいた(帰国して部屋を見た保志さんが、「父ちゃん、掃除くらいしといてくれてもええやないか」と言ったほど)だそうで、ご家族の対応は異なります。もちろんどれが正解かなどはなく、それぞれのご家族が、少しでも気持ちの整理をつけようとされていたのでしょう。

「むしろ死んだと分かった方が気持ちの整理はついたでしょう」とあり、照明さん(増元るみ子さんの弟)も同じことを言っていました。確かにその時は深い悲しみに襲われるだろうが、時が経てば気持ちは落ち着き、いつか思い出として話せるようになるのにと。

愛する家族が死んでいればいいなんて願う人はいません。それでも、いっそその方が楽だと言えるほどなのですから、消息が分からないという状態がいかに辛いかを物語っていると思います。



第四章 謎の国・北朝鮮

内表紙に、家族会が発足した日に撮ったものでしょうか、全員の方が集まっての写真があります。当たり前ですが皆さん今よりもお若く、何よりも、正一さん(増元るみ子さんの父)がお元気で写ってらっしゃるのを見て、この時にるみ子さんが帰っていれば…とどうしてもつい考えてしまいます。

1987年の大韓航空機爆破事故をきっかけに、ご家族の状況は一変します。押し寄せるマスコミの取材攻勢、そしていくら丁寧に答えても、おもしろおかしく報道されるだけの結果に、透さんはしだいに口をつぐむようになりました。玄関には「取材お断り」の貼り紙をし、お父さんはマスコミのことを、パッと燃え上がりすぐに消えてしまう線香花火に例えました。

世論を高めるにはマスコミは必要ですし、威力は絶大だと思います。しかし、被害者の方やご家族を思い、拉致問題を真剣に伝えるというよりは、視聴率や部数が伸びるからと殺到しているだけのように思えます。
帰国の時の報道は明らかに異常でしたし、キム・ヘギョンちゃんの映像を流したことは、北朝鮮の思惑をわざわざ伝える行為でした。

大韓航空機爆破事故の4か月後の、
「アベック行方不明は、北朝鮮による拉致の疑いが濃厚」
という国会での発言はなぜかマスコミ報道はされず、その後の日本の北朝鮮に対する交渉は弱腰のまま、それどころか次々とコメ支援がされます。

拉致問題が大きくクローズアップされたのは、サンケイ新聞に「アベック行方不明は外国情報機関が関与」と記事を書いた阿部氏、「現代コリア」に横田めぐみさんのレポートを書いた石高健次氏、それについて証言した安明進氏のおかげです。政府で力になってくれたのは、橋本敦議員の秘書、兵本達吉氏だけでした。

力になってくれたのが政府でも警察でもなく、一般の国民、はては拉致を行っていた元工作員というのは、一体どういうことなのでしょうか。



第五章 「二つの国」との闘い

家族会が発足したことで、同じ思いを共有でき、また目標ができたことで、ご家族は大変力づけられたそうです。

一方、年に何度も新潟、、福井、鹿児島から上京する機会が増え、その交通費、宿泊費はもちろんそぞれのご家族の負担であり、現在でも そうだと思います。

ここ数年は国内にとどまらず、アメリカをはじめ海外にも行かれており、その報道を見るたびについ、
「ああ、今回の渡行費用はいくらくらいかかったのかな」
という思いが頭をよぎるのです。もちろん、お金が惜しいなどと考えられたことはないでしょうが、本来ならこれは外務省がやるべきことのはずです。税金をきちんと払っているご家族に、更に政府がやるべき仕事まで、自己負担でやらせているのだと思うと、本当に腹立たしい。

100万人の署名 (国民の100人に1人が署名してくれた割合) も効果がなく、いかに総理や政府が全く力になってくれなかったかが記されています。
本の発売当時、議員の実名を挙げていることが話題になりましたが、その通り、どの議員がどのような発言をしたか、何をしたかが書かれています。
もちろんこれはほんの一部なのでしょうが、それでも、「外務省は敵だと思っています」といういつかの透さんの言葉を、十分に納得させるだけの内容です。

2001年に、国連人権委員会の「強制的失踪に関する作業部会」があることを知り、増元照明さんがジュネーブに申し立てに行かれた(この部分を読んだ時も、渡航費用のことが頭をよぎりました)時、
「日本の政府はこれまでに何をしてきたか」
を尋ねらた増元さんは、返答に大変困ったそうです。
家族会が結成した97年から丸4年もの間、何ひとつしてくれなかった日本政府は、一体何のためにいるのかという気さえしてきます。

北朝鮮から拉致被害者を取り返した国があると聞いたことがありましたが、レバノンのことだったのだと知りました。78年、レバノンの女性4人が拉致され、2人は自力で脱出し、残る2人は、レバノン政府の強い抗議で返還されたのだそうです。被害者を返さなければ、アラブ諸国を敵に回すというように圧力をかけ、増元照明さんのホームページでのレポートによると、拉致されて1年以内に被害者を取り返したとのことなのです。

聞いた瞬間、レバノンは素晴らしい国だなと思いましたが、同時に、これが当然の対応であり、日本がおかしいのだとすぐに思い直しました。
もし、警察も政府もきちんと職務をまっとうしてくれていたなら、きっと同じように出来たはずなのです。最初に警察や政府が拉致の事実を知ったのはいつなのか分かりませんが、その時点で強く抗議し、被害者を取り戻し、不法入国や不審船の監視も強めていれば、その後の拉致も起こらなかったのではないでしょうか。



第六章 同じ日本人として

「過激な手段はできるだけ用いず、あくまで紳士的な態度で訴えていく」 ことが、家族会を結成した時の基本的な方針だったそうです。
しかし、相手である政府が、もはや大人しくしていてはダメだと思い知らされ、今では、時には一部の世論から批判を受けることさえあります。だけど私は、2回目の訪朝を終えた総理が責められたのは当然だと思ったし、むしろご家族はまだまだ怒りを抑えて発言しておられるなと思います。

度重なるコメ支援に対し、2000年、ご家族は座り込みをされました。時は3月、まだまだ寒い時です。
それに対し、河野洋平という当時の外相は、
「お年寄りが多いのだから、無謀なことはおやめなさい」
と言ったそうです。誰のせいでこんなことをしてると思ってるのか。怒りと同時に、呆れすらします。

「正門前に変な団体がいるけれど、あれは何なの」
と言っていたらしい畑恵、そして、
「コメ10万トンなんて出しちゃだめよ。100万トン出さなきゃ!」
とご家族の前で意味不明発言をしたという田中真紀子。一体どういうつもりで言ったのか分かりませんし、全く理解不能です。

この章では特に政治家に対して厳しい言葉が投げかけられていますが(私は厳しくも何ともなく、当然の言い分だと思いますが)、訪朝した議員が、帰って来てから北朝鮮寄りの発言をしたり、朝日新聞の北朝鮮寄りの記事など、本当に何なのだろうと不思議でなりません。
マスコミは真実を客観的に伝える義務があると思うし、影響の大きさをよく自覚し、慎重に情報を発信することが重要です。抗議されたら訂正文を載せればいい、というものではないのですから。



第七章 戻らぬ歳月

小泉訪朝が決まった時、ご家族に何の連絡もなかったというのも信じられません。
訪朝前の面会を断られたというのは『家族』で知りましたが、本当に何のための訪朝なのか疑問です。

国交正常化を急ぐ理由は、一部の政治家や官僚の利害と結びついているからではないかという一文は、そういうことだったのか、と思いました。
それらの人達には良心や人の心というものがないのでしょうか。我が身の利益だけを貪欲に追い求めて、20年以上苦しんでいる被害者とご家族の方に対して、チラッとでも申し訳ないとは思わないのか。そういう人間が国のトップにいることに、情けなさと世の中の理不尽さを感じずにはいられません。

最初の訪朝で薫さん達が、そして2度目の訪朝で子供さん達が帰って来ました。
しかし、それは小泉総理のおかげでも、外務省のおかげでもない、と透さんはしていますし、私もそうだと思います。そもそも、小泉総理がなぜ訪朝したのかは分かりませんが、たまたま北朝鮮は拉致を認めただけで、日本政府の交渉の結果であるはずがありません。

「もう日本にいるのがイヤになった。どこかの国に移住したい」
とある時、ある家族会の方が漏らしたそうです。誰なのかは書かれていませんが、明記する必要のないことですし、また全ての方が多少なりとも抱いていた感情だったからなのではないかな、ともふと思いました。

記者会見で、
「24年間の空白を埋めることはできますか」
と聞かれ、どうすれば埋められるというのかと透さんは書かれていますが、記者の方は頼むからもう少し考えて質問してもらいたいものです。

薫さんが帰国されてから、しばらくの間、拉致問題がニュースや報道番組で取り上げられる機会が多く、透さんもよくスタジオにいらっしゃっていました。しかしある番組で、司会が、
「金正日は(拉致問題を解決するつもりだと言ってますが)信用できると思いますか?」
と、透さんではない他の誰かに質問していたのですが、何を言ってるんだこの司会者は、とその瞬間ものすごく腹が立ちました。
拉致を行い、なウソだらけの事実を日本に突きつけてそれを押し通そうとしている首謀者のどこが、信用できると考えることかできるというのか。

その時、透さんが一瞬カメラに映りましたが、黙って司会者を見ていらっしゃいました。一言も何も言わず抑えられたことは、今思い返しても、「お疲れさまでした」と言葉をかけたい気持ちで一杯になります。あの質問が透さんに対してのものでなかったことが、せめてもの救いでした。



エピローグ 弟と話したこと

内表紙の写真は、帰国直後の薫さんと祐木子さんと、「恋人岬」の展望台でしょうか、望遠鏡の前で笑っている透さんが写っています。

透さんはとてもいい笑顔をされているのですが、この時はまだ、不安と焦りと苛立ちでいっぱいだったんですよね。待ち望んだ24年ぶりの再会なのに、そんな思いでいなければならなかったことを、切なく思います。

昔よりギターが上手くなっていたこと、思い出話を、友人が驚くくらい鮮明に覚えていたこと。
「きっと、北朝鮮では日本での出来事を繰り返し、思い出していたのでしょう」という透さんの言葉の通りなのだと思います。

拉致され、その現実を受け入れ、日本に戻ることを諦めて北朝鮮で生涯を過ごすことを決意する(せざるをえない)までの被害者の方達の心境というのは、とても想像できるものではありません。
「いつまでも5人を特別扱いするな」などと帰国した被害者の方に対して厳しい言葉を投げつけている一部の人は、そのことをよく考えて欲しいと思います。

また、今もまだ拉致されたまま その思いを抱えている人が大勢いるということを、日本政府は思い出し、真剣に取り組んで欲しいと、ただ思います。





 「めぐみ」
(原作、監修 横田滋・早紀江  作画 本そういち/双葉社)

本屋でこの本を知り、帯の絵がとても可愛かったので、すぐに手に取りました。
帯にある早紀江さんの、「めぐみ。あなたのお話がこんな風に漫画になったのよ。帰ってきたら見せてあげるね」という言葉は、早く帰って来て欲しい、そしてきっと帰って来ることを信じているという、強い気持ちを感じました。

収録されている「めぐみ13年間のアルバム」では、若い頃の滋さんと早紀江さんが写っていて、横田さん夫妻の生きて来られた歴史が伝わって来ます。

滋さんは写真を撮るのが好きで、めぐみさんを撮る時は、服のラインをきれいにするために、スカートの後ろを洗濯バサミでつまむなどしていたそうで、スゴイなあと思いました。うちの父親もカメラが好きだったようですが、そこまではしてなかったように思います。

本では、早紀江さんの手記には書かれてなかったことがいくつか描かれていました。
ここにいるのかしら、ここかしらと鉛筆でなぞって、日本地図が真っ黒になってしまったこと。
早紀江さんの亡くなられたお父さんが、とても真っ直ぐて、人として一番大切なことを教えてらしたこと。
総理2度目の訪朝直前、早紀江さんが見た、めぐみさんが帰って来た夢のこと。

漫画は何といっても絵で大きく印象を左右されますが、めぐみさんはとても可愛らしく描かれていると思います。特に、中学の制服を着て写真を撮ろうと言われ、病み上がりのめぐみさんが「えー」と迷いながら出かけて行く様子や、早紀江さんの着物を着せてもらって喜ぶ様子がすごく可愛い。

安明進氏は横田さん夫妻に、
「教官を務める日本人達は、日本のテレビや新聞もしっかり見ています。そうでないと教育できませんから」
と語っているのを読んだ時は、「えっ本当に!?」とドキドキしました。拉致問題のニュースは見せないようにされているのではないかとも思ったのですが、安氏が、
「ですからご両親がテレビに出ていたら、きっとそれを見ているはずです」
とキッパリ言ってるので、きっと検閲はされずにそのまま見ることが出来ているのではないでしょうか。

もしそうならめぐみさんは、今のご両親の姿や、必死に自分を取り戻そうと活動してくれていることを知っていることになります。
ならば、希望を持って生きているめぐみさんや他の被害者の方達の希望を失望に変えてしまわないためにも、やはり1日でも早く帰国させてあげなくてはなりません。

また、北朝鮮への報道のあり方も、日本はやはりよく考えなくてはいけないと思いました。日本のニュースを見ていて、拉致問題のことが全く取りざたされていないと、自分達のことは忘れられてしまったのだろうかと感じてしまうでしょう。

また、蓮池透さんの手記で、
「北朝鮮で生きて行くには、日本へ帰れるかもしれないという思いを捨て去ることがプラス思考になる」
と薫さんが語ったことが書かれてありましたが、そうすると今のめぐみさんや他の被害者の方は、マイナス思考で過ごしてらっしゃることになります。
そんな辛い精神状態で頑張って暮らしている心中を思えば、一刻でも早く帰国させてあげる必要があるのです。

めぐみさんを拉致した丁という工作員は、安氏に、
「あの女性は私が日本から連れて来た。学校に戻ってから再会したので挨拶したが、無視された。拉致されたことを恨みに思っているらしい」
と言っていたという証言は以前から聞いて知っていましたが、本ではその後、
「知らない振りをされると気分が悪いよな」
と言っているセリフがあり、何を言ってるんだコイツは、と思いました。

めぐみさんにとって、自分を拉致した人間など、2度と顔も見たくないと思うのが当然です。拉致を行って平然としていられるのは、日本は非道な国だからこのくらいのことをしてもいいんだ、と洗脳されているからだとしても、拉致された人間が自分を恨んでいるという、人間として当たり前の感情も、この丁という男は理解できないのだろうか。

韓国から、滋さんと早紀江さんが北朝鮮を眺めている時、どれほどのめぐみさんへの愛しさを胸にいらしたんだろうと思うと、たまらなくなります。すぐ目の前に北朝鮮がある。ここのどこかにめぐみさんがいる。それなのに立ち入れないことに、心が潰されそうな思いだったのではないでしょうか。

その夜、夕飯を食べに入ったお店に、「千里の道も一歩から」と日本語で書かれた色紙が貼られていたことは、不思議なめぐり合わせだと思います。


キム・ヘギョンちゃんに会いに行きたいとする滋さんと 家族会との話し合いでの早紀江さんの意見は、とても納得させられました。

「私たちが北の思惑通りに騙されなかったら、後でヘギョンちゃんが、『お前の演技がダメだったからバレたんだ!』と叱られるかもしれない」 。そのシーンをいろいろシュミレーションして考えていて、ふと我に返った時、やはり北朝鮮というのは異常な国だなと改めて思いました。

「ヘギョンちゃんは向こうの子として元気に暮らしているのだから、焦ることはない」
とも早紀江さんは言っておられましたが、話し合いがされた2002年当時から4年が経ち(2005年現在)、ヘギョンちゃんは19歳になります。韓国の女性は結婚するのが早いそうですし、北朝鮮側が帰国しづらくさせるために、お見合いの話を持って来るなどして、ヘギョンちゃんが結婚して(させられて)しまう可能性も出て来ているのではないでしょうか。
そういう意味でも、日本政府が悠長にしていられる時間はないのです。

滋さんの訪朝について、蓮池透さんと薫さんが話されているシーンはとても興味深い。何といっても薫さんは、北のやり方を身をもって知っている1人です。しかし薫さんも、「複雑で難しい問題」としています。

また、めぐみさんの夫は、北朝鮮は韓国人だと発表しているが実は日本人ではないかとも言われていましたが、面識のある薫さんが「父(めぐみさんの夫)は韓国人」と発言していることから、やはり韓国人であるようです。

後編の雑誌掲載時の表紙はそれぞれ、北朝鮮でヘギョンちゃんと海水浴をしていたり、帰国の飛行機のタラップの上に立っているめぐみさんで、ご家族と一緒の写真の絵もあり、とてもいいと思いました。

この画が現実の景色となる日が早く来ることを祈らずにいられません。
滋さんと早紀江さんが、めぐみちゃんが帰って来たら、と思い描いている「してあげたいこと」が早く実現しますよう、心から願っています。

前編あとがきでの滋さんの言葉です。
「経済制裁は目的でなく解決のための手段です。(中略)拉致被害者たちを日本に返し、そのことで国家機密が漏れるマイナスがあったとしても、経済制裁で受けるマイナスよりましだと思わせことが大切なのです」
「制裁で打撃を与えることは、家族が北朝鮮内にいる私たちにとっても辛いことです。でも、その私たちが覚悟を決めて経済制裁を求めている気持ちを、ぜひ理解して下さい」

横田さん夫妻をはじめ、家族会の皆さんが闘っているのは、いま現在、日本政府であると思います。
本の帯の裏には「読め! 金正日」と書かれてありますが、日本政府こそ読むべきです。




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